民主主義の歴史的成立過程:「自由の命運」より | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

「自由の命運」にて著者が名付けた「足枷のリヴァイアサン」の考察により、民主主義の歴史的成立過程をおさらいすることができます。足枷のリヴァイアサンとは、国家=リヴァイアサンに、社会という足枷をひかせた動的均衡状態のことですが、

 

結論的には、足枷のリヴァイアサンは

 

⒈ゲルマン人由来の全員参加型の規範と制度(足枷=社会)

⒉ローマ帝国由来の国家制度(リヴァイアサン)

 

がもたらした、偶発的な力の均衡、ということになります。

 

ヨーロッパにおいて、足枷が存在せず、リヴァイアサンだけが存在した場合にはビザンチン帝国のように専横のリヴァイアサンになる一方、リヴァイアサンなく社会だけが存在した場合には、アイスランドのように国家建設の取り組みは行われず暴力が日常化した状況となってしまいます。

 

■ゲルマン人の全員参加型統治機構

ゲルマン人の部族は、AD98年タキトゥス著「ゲルマニア」によれば、

重要性の低い問題は指導者だけで話し合い、重要な問題は共同体間の全員で話し合う。ただし、最終決定権が平民にある場合であっても、問題はあらかじめ指導者によって検討される・・・集会では刑事裁判も行われ、極刑の判決が下されることもある…同じ集会で、郷や村で裁判を行う判事などの選出される。一人の判事につき、平民から選ばれた100人ずつの従者が助言を行い、判事の判定に説得力を与えている。

つまり、ゲルマン人の部族の伝統的意志決定方法は

2種類の集会があり、一方の集会は政治エリートが集まって議題を設定し、他方の集会には民衆が参加する

とのように部族内の男性が、政治エリート、民衆それぞれで意見を述べ合って意志決定していくという統治機構。古代ローマの英雄ユリウス・カエサルも、ガリア征服の際に

ゲルマン人が戦時中は集会で指導者を選出したが、平時には限られた権限を持つ指導者を除けば、上に立つ者は誰もいなかった

と指摘しています。この伝統は西ローマ帝国を滅亡させて以降、フランク王国等においてもこのような男性全員参加型の統治機構が続いていたといいます。

 

■ローマ帝国由来の国家制度

ローマ帝国はカエサルによる独裁制以降、共和政は崩壊し初代皇帝アウグストゥスによって、定型的な官僚機構がスタート。帝国に本格的な官僚制度が完成したのは三世紀後半になってからで、帝国末期には少なくとも31,000人の専任の有給公務員が雇われていたらしい。これには地方役員は含まれていないから帝国全体としてはもっと巨大な組織。

 

そして

ローマには少なくとも精巧な構造を持ち、地域別に組織された官僚国家があった。この世俗的な制度は、キリスト教教会の階層別の類似していた。

とし、キリスト教の官僚組織をも取り込んだ高品質な官僚組織を保有。

 

■ゲルマン部族の伝統とローマ帝国の官僚機構の融合

【フランク王国】

フランク族の初期の歴史は、ゲルマン人のボトムアップの政治的伝統をローマ人の国家制度と組み合わせようとする奮闘だった

とのことでしたが、

フランク族がローマ人とかかわりあい始めたころにはすでにフランク族の政治制度に組み込まれていた

ゲルマン人の全員参加型の伝統は、800年にカール大帝がローマ皇帝として即位し、ローマ的な官僚機構に近づいたときにおいても、789年のレーゲンスブルクで発令された勅令では、国民が「自分たちの法が守られていない」と訴えるところをみると、

法は王ではなく民衆のものであり、王の仕事はそれを執行すること

とのことから、ゲルマン伝統のボトムアップ型の政治は継続。

 

【イギリスにおける9世紀の諸王国】

西ローマ帝国が崩壊して以降、イギリスにはスカンジナヴィア南部&ドイツよりアングロ・サクソン人(=アングル人&サクソン人)が来島。871年アルフレッドが王の即位したときもゲルマン人の全員参加型の伝統が継承されてました。エインシャイム大修道院のアエルフリク院長曰く

誰も自ら王に就くことはできず、民衆には気に入ったものを王に選ぶ自由がある。だがいったん王に任じられれば、そのものが民衆を支配する

また973年エドガー王即位時も貴族や州を統括する代官とその部下の行政官で構成する集会がエドガーが王にする代わりに追放もできたらしい。このイギリスの伝統はその後もマグナ=カルタ(1215年)となってより強化され、黒死病(ペスト)の流行(1347年-1352年)による農奴の人口激減による人材不足により、さらにボトムアップ型の政治は強化されたらしい。

 

【他のヨーロッパ】

マグナ=カルタと同じような王権に制限を加える法の支配の事例は、イギリスに限ったことではなく、1356年ブラバント公国(ベネルクス諸国)における議会の自由特権、1205年アラゴン王ヘドロ二世がカタルーニャに授けた憲章、1220年ドイツのフリードリヒ2世の憲章など、多数。

 

唯一アイスランドだけは、930年アルシングという全島集会が地域の意志決定機関となり、国家の創設の合意には至らず。その後、首長たちの抗争と併合が繰り返されるという終わりなき報復合戦の地と化し、ローマの官僚主義と中央集権制度の欠落がもたらす悲運の時代が続きました。

 

一方の東ローマ帝国=ビザンチン帝国は、ローマの制度をそのまま引き継いだたため、国家財政は安定し、経済や貿易もコントロールするなど、安定した時代を享受。ただしゲルマン人の参加型政治の側面が欠落していたために専横のリヴァイアサンの負の側面から抗うことはできず、1081年に国家を乗っ取ったアレクシオス1世コムネノスの国家の私物化等により、国家は衰退の道をたどり第4回十字軍による1204年のイスタンブール陥落を経て崩壊(その後は1453年オスマン帝国メフムト2世の支配下に)。

 

このようにみていくと、これまで私は古代ギリシア:アテナイのデモクラティアがルネサンスによって復活し、それが近代哲学に取り入れられて、フランス革命やアメリカ独立につながったと思っていたのですが、そうではなく、民主主義の起源は、ゲルマン人伝統の全員参加型の規範だったというのが真相。でももうちょっと類書で検証してみたい気分ではあります。