唐津の風土を味わう | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

佐賀県唐津市は、位置的には、東経140度ピッタリということで私の生まれ故郷、千葉県船橋市の東経130度ピッタリからちょうど西に10度という縁のある土地。

 

唐(中国)にわたる津(港)という意味の唐津は、かつて松浦(まつら)と呼ばれ、肥前国の玄界灘に面するエリア。もともと佐賀県&長崎県は肥前、熊本県は肥後だから、両方とも火(肥)の国に由来した火山の国。

 

◼️唐津平野と唐津城

背振山地という、プレートの沈み込みによって水分が吸収され花崗岩となって形成された地形を松浦川や玉島川が削り、削られた堆積物が唐津平野を、その堆積物が海流の働きによって見事な砂州の美しい海岸を形成。

 

 

大陸から訪れるシベリア低気圧に伴う冬の強風(1月の平均風速2.6m/S)や強風による砂の飛来を防ぐため、

 

 

防風林がこの砂州上に植林され、江戸時代の唐津藩以降、保護されてきたのが日本3大松原の「虹の松原」(鏡山展望台より)。

 

 

そして砂州と松浦川の地形を自然の要害として活かし、その対岸の先端に唐津城が築城。

 

 

唐津城の麓には佐賀県出身の大隈重信か創始者の早稲田大学の附属高校・中学校も。

 

 

◼️上場(うわば)と肥前名護屋城

唐津平野西方の大地は「上場」と呼ばれ、噴火で空から降った溶岩ではなくマグマが地面の割れ目から噴出して形成された溶岩が冷えて背振山地の花崗岩にかぶさった台地。

 

 

朝鮮半島に出兵した豊臣秀吉の拠点となった肥前名護屋城は福岡の黒田長政や肥後の加藤清正などが築城。なぜ秀吉が上場を拠点としたか?それは半島侵略にふさわしい好条件が揃っていたから。

 

 

①壱岐・対馬の島づたいに、かつ最短距離で朝鮮半島に一番楽に行ける立地。

②上場の玄武岩は石垣の石材としてそのまま活用可能

③リアス式海岸(※)は、入江が深く船を隠しやすく波が穏やか

ただし城内の水の確保には苦労し、渇水対策として城内にはため池があったらしい。

 

※リアス式海岸=氷期と間氷期のサイクルによる海水準の上下によるもの。海水準が低い氷期に川が陸地を削り、海水準が高い間氷期に海水面が上昇して形成される(土地の沈降要因は僅か)。東北の三陸地方も同様。

 

 

 

 

こんな大阪城に次ぐといわれた名護屋城も秀吉の死によって放置。天草の乱の教訓もあり、農民たちなどが城に立て篭れないよう、城の機能を無能化するべく石垣の角を崩されてしまいました

 

 

その間、唐津城にその石材や建材が流用された以外は、今の発掘が始まるまでほったらかしにされ、当時の原型がそのまま残った歴史遺産(全国に8つしかない戦国・江戸時代の城の特別史跡に指定)に。実際に訪れるとこの巨大な城跡に驚愕します。

 

 

現地ガイドさんによれば、小競り合いが絶えなかった徳川家と前田家の間に伊達家が陣を張った逸話など、名護屋城はもちろん、この周りに日本全国の戦国大名が集まって160以上の陣屋が建てられ、20〜30万人の人口を擁したということは、当時のロンドンを上回り、唐津市の現人口12万人の倍の人口が名護屋城周辺に集積していたということ。

 

 

◼️唐津焼

もともと朝鮮半島と交易のあった唐津は、岸岳山麓で室町時代からは窯がありましたが(古唐津)、当時の領主波多氏(後任の寺沢氏が唐津城築城)が秀吉によって追い出され、秀吉の朝鮮進出に伴って連れてきた朝鮮陶工が(総勢7万人ともいわれ有田や萩などにも分散)、新たに窯をつくって唐津港から全国に供給されたのが今の唐津焼。

 

 

「一楽、二萩、三唐津」と茶人に親しまれた茶器。

 

◼️唐津炭鉱によって発展した港町唐津

そんな唐津の今の街づくりは、一時期は筑豊の生産を上回ったと言われた唐津炭鉱によってもたらされたもの。「佐賀県の歴史散歩227頁」に基づき、

 

炭鉱跡地をGoogle マップで探ったものの、全くその痕跡はなし。世界文化遺産の長崎軍艦島はじめ、筑豊炭田などは歴史博物館を作ってその歴史遺産を残しているので、実に対照的。

 

 

炭鉱で巨万の富を築いた富豪の屋敷が観光資源として今も残存。写真は高取伊好

 

炭鉱の開発と鉄道開通による唐津港への石炭の陸送→水運という物流の拠点として唐津市は発展。佐賀市に次ぐ人口を誇るまでになりました。

 

明治時代には高橋是清を英語の教師として招聘し、その教え子として東京駅・日本銀行本店の設計で有名な辰野金吾などの名建築家を輩出。彼の設計による旧唐津銀行も観光資源として街の中心に今も残っています。

 

 

戦後、主要エネルギー源が石炭から石油に変わるに伴い炭鉱が閉山し、街は人口減少が止まらずこの10年間で6.4%の減少(国勢調査。以下同じ)。

 

福岡市がここ最近5%増で特に若者を中心に人口増してますから、車で1時間ほどの唐津市から若者が福岡に吸収されているのかもしれません。高齢化率も30%と典型的な地方都市の超高齢化社会。一方で農林業の人口比率が6%(全国平均2.3%)と農業が盛んな土地柄でもあります。

 

また石炭に変わって、石油を燃やす火力発電所(九州電力)などもありましたが、2015年に廃止され今は廃棄処理中。

 

 

◼️玄海町は、唐津市に囲まれてポツンと独立

唐津市をドライブしていると、なぜか玄海町だけが平成の大合併で唐津市と合併せず孤高の存在となっています。

(グーグルマップより)

 

玄海町は原子力発電所のまち。玄海町は、原発によってもたらされた豊かな財源が、唐津市の抱える巨額の借金に充当されてしまうという現実から、合併を回避したようです。

 

 

唐津は、評判に違わぬ美しい街。ぜひ鏡山に(車で)登ってその美しい眺望を堪能してほしいと思います。