「クオリアと人工意識」茂木健一郎著 読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

「クオリアと人工意識(人工知能ではない)」というタイトルではあるものの、人工意識に関する著述は極めて少なく、「意識とは何か」「意識と知性との関連性」「意識と人工知能との関連性」に関して述べた著作。

 

<コメント>

テレビにもよく登場する脳科学の有名人茂木健一郎さんの専門は「意識」「クオリア」。新刊として発売されましたので、私も早速電子書籍で通読しました。

 

内容的には自然科学っぽくいない内容。「実験に基づく仮説」よりもむしろ「実験なしに原理を探究する仮説」のような考え方で進めていくので、まるで哲学書のようです(でも哲学的な結論もなし)。

 

「人工意識」に関しては私が興味を持った以下の点、

 

●どのような実験によってどのような物質で作られようとしているのか

●人工知能のように二進法に基づくコンピュータの延長線上で作られようとしているのか

●あるいは生物学的に、人工生命の延長線上として細胞などの培養によって作られようとしているのか?、

●そして現段階どこまで進んでいるのか?

 

などには全く言及していません。したがって本書は「人工知能と意識」みたいなタイトルの方がしっくりします。

 

茂木さんのいう「クオリア」は、哲学的には「知覚」という概念に近いのでしょうか?

 

知覚=自分の内に生じるさまざまな意識表象のうち、意識の自由にならず、その志向力の彼岸にあるようなものとして現れ出る意識対象。知覚は自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れる。この知覚こそ、自我に、自我ならざるものが確かに「外側」に存在することを告げ知らせる唯一の根拠となるのである(竹田青嗣の何らかの著書より引用)。

 

茂木さんも「知能」と「意識」を明確に分け「何か人工知能がもっと賢くなったら意識が生まれる」みたいなことを思っている人が多いが、これは意識を知能のうちの一つの機能だと誤解している人たちの言説だというのは納得です。

 

「知能と意識は別物」であり、例えば松尾豊さんなどは「人間=知能+生命」と表現して、人工知能をいくら極めても命を持たない以上、人間にはなり得ない、と言っていますが、彼のコメントは意識を生命固有の機能の一つと考えているように感じます(人工知能は人間を超えるか)。

 

 

 

 

人工知能はどこまでいっても賢い機械にしかならず、意志や意識を持つわけではありません。意志や意識の世界は生命の世界の話で全く別の世界。

 

しかし、脳科学の分野でも、意識に関しては「覚醒している場合と夢を見ている状態は、大脳全体が一つのシステムのように統合的に複雑に動く(=電気信号のやりとり)状態(「意識はいつ生まれるのか」ジュリオ・トノーニ著)まではわかっているのですが、それ以上のしくみは全然解明できていないし、人間以外の動物に関する意識に関しても全くわかっていないのが現状らしい。

 

 

 

そもそも、自然科学で解明できるのは「意識は電気信号や化学伝達物質のやり取りの物理的構造の解明」までであって、その意味するところがどのように意識として構成されているか、その構造ははどこまでいってもわからないのではと思います。

 

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリも「何十億というニューロンが特定のパターンで電気信号を発していると愛を感じるのは一体どういうわけか、私たちには見当もつかない。少なくとも当面は心の研究は脳の研究とは異なる仕事だ(21Lessons「瞑想」)と述べていますが、私は当面ではなく永遠に自然科学では解明できないと感じています。

 

 

 

茂木さんのいう「評価関数」が全てわかれば、その全てをパラメータとして人工知能にセッティングすれば、あたかも一人の人間のように機能(哲学的ゾンビという)するでしょうが、だからといって意識や心にはならない。そもそも個々人に宿る無限大かつ不確定な現象を評価関数として全て数値化すること自体があり得ない。

 

この辺りは、茂木さんも同じように考えているようです。

 

したがって本書においても「人工知能に関しては、大いなる幻想を抱くのはやめて、高性能なコンピュータぐらいに思っていた方が無難」という結論です。

 

茂木さんの指摘が面白かったのは、

 

脳科学・心理学・行動遺伝学などの学説は、すべて統計的アプローチが主体で「多くが○○だから○○の傾向がある」という、物理学や数学のような「確定値」ではなく「傾向値」でしか学説として成立しないということ。

 

一方で意識は「直接性の原理」なので個々人の個別現象。どこまでいっても「自分の意識」しかないので「傾向値」がわかったからといって「自分の意識」が「傾向値」通りかどうかはあくまで参考値にしかならない。

 

茂木さんはこの辺り「統計的アプローチには固有の限界がある。それは、この宇宙、生命、私たちという存在の一端をとらえるものであっても、その深淵の芯に至るものでは必ずしもない」とファジー(非科学的?)に述べて否定的でした。

 

以上、茂木さんはあとがきの中で「人工意識に向けての道筋はまだはっきりとはしていない」といい「それじゃあ茂木さんは何がしたいの?」という疑問だけが残る著作ではありましたが、書いてある内容については納得感のある説が多く読み応えはありました。