昨日は、私の父親の49日の法要でした。
お上人さんを呼び、お経を読んでもらい、この世からあの世へ旅立ってもらう日。
霊園への納骨も済み、全て滞りなく終えました。
とても気持ちのいい青空の、光溢れる日でした。
でも、ちょっとだけ困り、そして嬉しくなった前日譚があったからこそ、そう感じたのかもしれません。
それは、父の葬儀が終わり、数日経った日の事でした。
その日、私は朝から正体不明の苛立ちにさいなまれていました。
私は(来た…)と思いました。
この前触れもない、正体もないイラつきの感覚は、以前にも何度か経験していたからわかるのです。
それは、霊障です。
私の仕事は介護士です。高齢者の介護が仕事です。当然、利用者が亡くなる事も幾度か経験しております。
とても親切にしてくださったあるお婆ちゃんが亡くなった時は、あいさつに来て下さいました。感謝の念を感じるのです。
逆に、どんなに丁寧に接しようと、呪詛のような罵りの言葉しか言わない利用者が亡くなった時は、ひどい霊障に悩まされました。
私が嫌いだと思う事は、相手も感じ取っており、感じているからこそ、残留思念と言いますか、業のようなものが覆いかぶさって来るのです。
闇を見る時は、こちらも闇に見られている。って、聞いた事ありますでしょ?(あるよね?)
亡くなった人を思う時、向こうもこちらを思うのです。思いは、繋がり、届きます。
『祈り』は思いであり、信じられているように、『呪い』もまた、形のある思いなのです。
嫌いだった利用者の霊障に悩まされた時は、成田山のお不動様に払っていただきました。(私はあの地が大好きです。お不動様の前に座ると、いつも必ずお力を頂ける気がするのです。)
さて、父が亡くなり数日たった時感じた霊障も、この厄介な呪いに近いものでした。
父は、晩年は怒りの感情に支配されてしまった人でした。
脳梗塞を3度、心筋梗塞、がん。闘病は10年以上続き、同じだけ介護が必要でした。
元々夫婦仲も良くない中、手のかかる父の介護に疲れていた母は、時に心ない事も言ってしまいます。
父は、そんな母に反発するかのように、頑なに、リハビリを拒否し続けました。そしてさらにそんな自分を批判する母に、苛立つようになっていったのです。
お互いにいがみ合い、その関係は修復されることなく、父はこの世を去りました。
この世を去るまで母は介護し続けたのだから、本当は愛情があったのです。ですが、ね、私が正しくないと思っていても、親の関係に子どもは入れないものです。
冒頭の(来た…!)は、オヤジの霊障だと確信していました。感覚でわかります。
しかし実の父親でもあります。お不動様の前に行って払っていただくのも忍びなく、私はその日一日を街をぶらつく事で耐えました。
家の中にいると、全く意味もない苛立ちに襲われ、子ども達や奥さんに当たってしまうのが嫌だったのです。
しかし時間は過ぎてしまいます。夜になり、家に帰らなくてはいけません。
生前の父がそうであったように、私も般若のような形相で、家に入ります。奥さんのしーちゃんも、私のただならぬ気配に危機を感じます。
全く、何のきっかけもイラつく要因も無いのに、自分が恐ろしく殺気立っているのがわかるのです。なのでそれを、隠すつもりもなくしーちゃんに話しました。
するとしーちゃんは、当たり前のように私を抱きしめてくれました。
「浄化」
と言って。
内心、(まさか…)と思ったのですが、次の瞬間ウソのように心から棘がなくなって行きます。
ちょっと、いや、かなりマジで、ビビりましたよ。
しーちゃん浄霊できんの!?
元々ヒーリングの力がある事は知っていましたが、心を軽くする程度で、そこまでとは思っていなかったんです。(奥さんのブログにある『アルティメット・ハグとは、この事です。)
すっかり元通りになった私は、まさに憑きものの取れた状態。これでオヤジの業も払われてたらいいなぁと思っていたら、ホントに払われてました。
次の日の朝、次男のチイがニコニコしながらこんな事を言ってきたんです。
「昨日の夜、ジイジに抱っこされる夢見た!ニコニコしながらボクを抱っこしてくれて、そこはお花畑なの!」
私は、(ああ……)と内心安堵のため息をついたのでした。
全ては私の思い込みかもしれません。確証なんて、ありませんから。でも、救われた日の出来事でした。
隠された力にビビった
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