俺はまだノーベル賞取ってないけど全く同感だ。

 

 

日本では極端に普及が遅れているせいか警鐘を鳴らす者がほとんどいない。

 

しかし、これは喫緊の問題なのだ。

 

声明では、「今すぐ行動しなければならない」と訴え、AIは今後10年で飛躍的に性能が高まり、18世紀後半から19世紀にかけての「産業革命」を上回る大規模な変革が、より短い期間で起きる可能性があると指摘。それにより、多くの労働者の雇用が失われるなどのリスクがあり、研究者や各国政府、企業は、AIが社会全体の利益につながるような規制や制度を構築しなければならないとした。 

 

俺も今までここで何度か言及したとおり、もう既存の資本主義を大幅にアップデートすべき時期に差し掛かっている。

 

早急に議論を始めなければ手遅れになるぞと言って良いほどだが、肝心の政治家が安野にハンズオンで教わり始めた程度なのだからまぁ歯痒いこと。

 

声明のとりまとめで中心的役割を果たした米スタンフォード大のエリック・ブリニョルフソン教授は、「AIは私たちの理解をはるかに上回る速さで進歩している。少数のためではなく、多くの人に繁栄をもたらすよう導かなければならない」とコメントしている。

俺は結局、「外形的な事実で判断する」という法的な検討のプロセスそのものに大きな誤りがあるのだと思っている。

 

このプロセスは一見、表現の自由の侵害から十分逃れられるように見せておきながら、実は一方の(外形を見る側の)思い込みを尊重した結果、間違いなく他方の内心を無視することになっているからだ。

 

外形とはまさに、内心による表現の形と現れそのものであり、それらを完全に切り離すことなど出来るはずがないだろう。

 

他者が勝手に人の内心に踏み込むことにもなり兼ねないこのプロセス自体が、おのずから法的に定義されたハラスメントの外形を纏っていると考えるべきではないのか。

 

今日の「なんでもかんでもハラスメント」とされる論理は、いかにも国旗損壊罪の成り立ちに似ている。

 

もちろん、それが個人の尊厳を守るのか国家の尊厳を守るのかという点において、両者が違っているのは確かだ。

 

しかし、結局誰かの内心の自由を無視するに至るリスクを孕むという点においては、実はほとんど差が無いのである。

 

プライバシーの保護なくして内心の自由は語れず、内心の自由なくして外形的評価など、決して語りようがない。

 

「外形的な事実で判断する」などというのは、見てくれを「正義」をもって吟味すれば、必ず本質を暴けると断定しているという意味において、この上なく傲慢なハラスメントの結晶でしかないのだよ。