やはりこれは書いておかなきゃいけないのだろう。
「熊」をどうしたらいいのか?という話だ。
どうも世の中は感傷性に走りがちなようだが、俺は「目の前の熊を生かすか殺すか?」という問題はまったく根源的で無いと思う。「熊」問題の核心は、圧倒的に「熊が人を恐れなくなった」ことにある。それが今、本当にマズイのだ。
人を恐れぬから人里に現れる。それで人とバッタリ出会ってしまって人を襲う。恐れなくなってると言うわりに「出会ったら襲う」というのは、つまりはそれが「殺られる前に敵を殺る」という自然界の掟・生存本能そのものだからだ。
熊に襲われた人は、後遺症が残り、あとの人生非常に苦労するという。熊に殺された人は、非常に無残な殺され方をしているという。
では、果たして熊は「残虐」なのだろうか?
ひどく悪質な生き物なのだろうか?
否、そんなことはないだろう。
熊は「悪者」だからそんな振る舞いをする訳じゃない。熊は己が生きるために、必死に目の前の敵と対峙しているだけだ。
「殺られる前に敵を殺る」
それが自然界では当たり前の掟なのである。
だが、その敵が「人間」だった場合、そして熊からヒドい目に遭わされた経験を語る場合に、人間の側の「感傷」として「熊は残虐だ」「悪質だ」という話になっているだけだ。
では逆に、その熊を駆除する側にいる人間は、果たして「残虐」なのだろうか?
ひどく悪質で高慢な生き物なのだろうか?
否、そんな訳はないだろう。
人間は「悪者」だからそんな振る舞いをしてる訳じゃない。「簡単に命を奪うべきではない」「傷付ける権利はない」といった感傷は理解できるが、それは人に襲いかかる熊に対しても言えることだ。人間は人間の生活を守るために、必死に目の前の熊と対峙している。人を恐れず、平気で人里に下りてきてしまった熊との間合いを測りかねている。ちょっとでも気を抜けば殺され兼ねない。ここ数年、実際に殺される人が激増しているのはそれが切羽詰まっている証拠である。
「殺られる前に敵を殺る」
熊と同様にその掟に従えば、目の前の切羽詰まった状況から切り抜けようとして「人」が使う術が、「残虐で悪質だ」と言い切れる満足な論理は無い。つまり、人を恐れずに下りてきてバッタリ出会ってしまった目の前の熊を、「殺すか殺さないか」という議論にはもはや何の意味もなく、感傷をはさむ余地もないということだ。それは熊にとっても、人にとってもだ。
そうではなく、我々が本気で議論しなければならないのは、「熊が人を恐れなくなった」という、この上ない異常事態についてなのである。
人間というのは、この地球上の生態系において圧倒的に食物連鎖の頂点に立つ生き物である。相手が熊であろうとライオンであろうと、いざ本気になったら彼らを殲滅するだけの力を持っている。
熊は元来、本能的にそれを心得ていたからこそ「人を恐れて」いたはずなのだ。かつて熊は、人からその食物になる対象として狩られていた。人から狙われる経験を通して当然のように恐れたのだ。その熊の生存本能がより自然的・必然的であるならば、人を恐れて近寄らぬこと、人を避けることこそが彼らにとっての正解なのであり、彼らの安定した「種の保存」に対して最も首尾よく寄与する、いわば最善の策だったはずなのである。
熊は母から子へと、非常に緻密で丁寧な教育を行う動物である。元来の熊の生存本能はそうやって次世代の熊に受け継がれ、これまで絶滅することなく人との分離共存を支えて来た訳だ。
ところが、一体どういうことなのか、その熊が「人を恐れなく」なっているという。これが口にするほど簡単ではない、破滅的な異常事態であるということに、我々はもっと焦点を当てて敏感にならなければならない。
熊が人を恐れないというのは、人間の側ばかりか、とりわけ熊にとっての絶望案件だということだ。
前述のとおり、人間は食物連鎖における圧倒的な王者である。熊は間違いなく人間との勝負に勝てない。その事実を熊が忘れてしまっては、彼らは将来に渡って危機に晒されることとなり、最悪、生き残る道を失ってしまうだろう。
特に最近の報道などで目立つ「子熊が単独で街中に現れる」ケースなどは、母から子への情報の引き継ぎがすでに途絶えてしまっていること、つまり今よりも何世代も前から熊の生存本能に狂いが生じ始めていたことを物語る、きわめて不都合な事実だということだ。
目の前の一頭・二頭の熊を生かすか殺すか。そんな論点で思考停止していては、単純にその「問題の頭数」がどんどん積み増やされて行くばかりで、何の解決にも繋がらない。
我々人間は、地球上の生き物の頂点として「種の保存に責任を持つ」という気概が少しでもあるのなら、人間と熊がぶつかり合うアクシデントを可能な限り減らして行くという志向で、「人を恐れない熊」問題に一秒でも早く取り組む必要があるのだ。そこに感傷を挟み込んでいる暇は無い。
どうしたら、昔のように熊が人を恐れるようになるのか。その「恐れ」は人に狩られていた時代の名残りだったが、だからと言って同じように「狩る時代」に戻るという訳にもいかない。きわめて難しい問題だ。
1900年代の半ば、アメリカのイエロー・ストーン国立公園ではオオカミの絶滅によりエルクが爆発的に繁殖し、その生息範囲を大幅に広げた結果、森林が食害にさらされて生態系に深刻な影響を与えた。多くの植物、鳥、魚をその圏から追いやってしまったこの事態は「鹿害」と呼ばれて問題視され、その後数年をかけて別地域からオオカミを再導入して生態系の修正を図る試みが行われた。数十年後、オオカミが順調にその頭数を増やして一定の立場を築き、エルクの減少および生息範囲の縮小を中心に、他のさまざまな生き物とのバランスが取れたことで生態系が復活し、安定を取り戻したという経緯がある。(これ、確か息子の大学受験のとき英語長文問題で読んだ気がする・・・共通テストだったっけかな?)
これは、人間の干渉によって自然の「系」「バランス」を補修出来たという一つの例だ。もちろん、直接的に「人を恐れない熊」問題への応用が効く訳でもないが、ただ指をくわえて見ていればいいという考えには適度な刺激となるだろう。
人間は何も干渉すべきではない、といった意見も根強く有るには有る。しかし、人間は「存在している」ということ、それ自体が既に系への干渉なのだ。オオカミもエルクも、熊の存在もまた同様なのである。うまくやって行こうとするなら、知恵が必要だろう。知恵で勝負出来るのは人間しかいない。我々は「感傷」に浸るのではなく「干渉」によって解決を図れるよう、出来るだけ努力すべきなのではあるまいか。


