リブログ出来ないので、勝手にリンクを張らせてもらうことにする。
悪しからずよろしくお願いしますm(__)m
元来歌がテーマの記事なのだが、俺が引用したい部分は次の箇所だ。
私は、語学は、英語と中国語しか勉強していませんが、
『語学』って、大事だと思っています。
『言語』が違うと『思考』も違ってくると思います。
日本語の「ありがとう」と中国語の「謝謝」、そして英語の「thank you」はおそらく意味が微妙に違うのではないかと思います。
まあ、私は、言語学者ではないので、詳しく解説できませんが( ・ω・)
これは非常に重要な視点であり、人間のコミュニケーションの本質に迫っている。
言語の違いと思考の違い、これが多くの場合で密接な関連性があると目されるのだが、果たしてその根源は何なのか。
「境遇の異なる者同士は、共通言語を持たない」
というのが、実は数十年来の俺の持論である。
しかし白状すれば、これは「ウィトゲンシュタイン」の主張からその原理を得ているのだが。
ウィトゲンシュタインは前期の研究において「言葉は現実の写像である」としたが、しかしそれでは抽象的な「意味」の多文化的分岐・解釈を説明出来ないことから、後に転じて「言葉の意味は『言語ゲーム』(言葉が使われる文脈)によって規定される」と言い換えた。
例えば年寄りの話す言葉は、年寄り世代の境遇における共通体験によって意味を得ている。若者にそれが通じないのは同じ体験を共有していないからだ。
同様に若者言葉は、その時代の若者が置かれた境遇によって同じ体験を共有しているからこそ生まれた「付加価値的な意味」として創造されるものだ。だから同じ境遇に無い年寄りには、その価値がわからない。「ヤバイ!」が誉め言葉になったり、So Badが「カッコいい」になったりする。これは、言葉が本来的に固定された意味を持っているのではなく、誰がどういう文脈で使うかで流動的に意味が決まることの証拠だ。同じルールの下で同じゲームに興じている者同士でしか通じない「意味」があり、それを表すのが言葉である。ウィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」の本質である。
昔から「元々の言葉の意味を大切にするべき」といった論調は常にあるにせよ、それはここでの議論を何ら規定しない。ひとつの言葉が、その最初の発祥から今に至るまで、常に普遍的意味を保ったまま伝承されているなどという仮説が一切成り立たないのは明白だからだ。
このことは、日本語か英語かのような多国語レベルの話をする「遥か以前の段階」で根本的に成り立つ概念であり、すべての国の言語がそのようにして構成され、同じように時代を経て来ていると想定される限り、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念はどのような「言語」に対しても適用可能で、どのレベルにおいても同じ価値として検討され得るものなのだ。
片や日本語、片や英語で一見ワケのわからない会話をしているように見えても、根本的に同じ境遇、同じ体験を共有している者同士であれば、案外意思の疎通が成立していたりすることがある。
反対に、同じ日本語で会話をしているはずなのに、相手にマッタク話が通じないなんてことも普通にある。それは多くの場合、互いに大きく異なる境遇の下にあり、ほとんど同じ体験を共有していない者同士の会話に現れる。
多言語の観点で言えば、少なからず他国との間では境遇も体験も明らかに異なるわけだから、その言語の成り立ち・歴史の重なる経時の結果として、必ずしも「翻訳すれば通じる」とは限らぬ、言語ゲームレベルでの大きな意味の隔たりが、それぞれの国の言語間に横たわっていると考えておかしくはないはずだ。
つまり、我々は他者とのコミュニケーションにおいて常にこのことを意識する必要があり、「言葉の意味を辞書を用いて変換すれば必ず通じるはずだ」とか、若しくは「同じ日本語をしゃべっているのだから通じないはずが無い」といった一見常識的な見方は、実はほとんど通用しないものと考えた方が良さそうだ、ということなのだろう。
『言語』が違うと『思考』も違ってくると思います。
この考えをもっと重いものとして扱えば、首相の「軽い言葉」も、そう簡単には出て来なくなるはずだと思うのだが。