先日俺がここで引用した下記記事について、俺は「中身が薄い」と書いたのだが、
どうやら同じライターによる別記事が有ったようで、そちらは上記記事のような薄い内容ではなく、下記のとおりまっとうな批判が展開されていた。
星野真里への批判に漂う「薄気味悪さ」の正体
もちろん、星野さんの主張が100パーセント正しく、そして完全に受け入れられなければならないというわけではありません。けれども、今回星野さんに向けられた批判、もっと言えば反感には、そうした是々非々の判断よりも、感情的なバイアスがかかっているように思われます。
なぜなら、言っていることに対する賛否はあるにせよ、まずは彼女たち一家の送ってきたこれまでの日々に対する配慮や想像があってしかるべきだからです。それが「お互い様」を暗黙のルールとする、成熟した社会の姿であるはずです。
しかし、批判コメントにはそうした思いやりはみじんもなく、最初から冷たく突き放したように「これが現実だ」と論破を仕掛けるようなものばかり。
客観的なデータをもとに星野さんを批判できる自分は正しさを体現している、と言わんばかりの硬質な言葉でまくし立てている。
いったい、なぜ星野真里に対して、一斉にマウントを取りたがるような世論が形成されてしまったのでしょうか?
まず、批判の矛先が障害者政策に向けられている点は特徴的です。なぜなら、彼らの「正しさ」は社会的な弱者に対して発動しているからです。つまり、自分より小さく弱いものに対してなら正論をぶつけられるという安心感があるからこそ、星野さんの主張は格好の餌食になったというわけです。
これは生活保護叩きと同じ構図だと言えます。批判をする際に、自分が高い確率で正しく、強いポジションにいられるロジックを構築するために、もっとも弱く小さいものを血眼になって探すのです。
これが、今回の星野真里批判に漂う、薄気味悪さの正体です。
読んで極めてまっとうな分析だと思った。要点は2つある。
①批判する連中には個別の事情を慮る視点が全く無く、想像力を欠いており、事態を感情的にしか見ていない。
②そもそも障害者・生活保護受給者などの弱者は「恵んでもらっている者」であるという認識で、批判する連中は常に上から目線の位置に立とうとしている。
批判世論は、あたかも正論のように批判を展開することで常に上の立場に居られる快楽に浸っているのだと、この記事にはそうある。
全くそのとおりなのだが、これには文脈的にさらに付け加えるべき点が2点あるので、それについて書いてみる。
1点目は上記①②に関し、批判者はさらに「立場可換の法則」を完全に無視しているという点である。
障害を持つ人とその家族がその困難を主張して叩かれる構図は常に、この法則は「自らには決して及ばない」と信じて疑わぬ、超能天気体質な批判者の大量存在による結果なのだ。現実には、いつなんどき誰がその立場に見舞われるとも判らぬ、きわめて普遍的リスクとも言えるはずの事態なのだが、想像力を欠いた連中の頭の中では生まれて此の方ずーっと「他人事」なのである。
2点目はこの問題の根底にあるインクルーシブ教育の実践について、批判者が日本の政策の矛盾について微塵も理解していない点だ。
日本は国連の「障害者権利条約」に2007年に署名し、2014年には批准している。「障害者差別解消法」の制定や「障害者基本法」の改正もこの条約を根拠に行われたものだが、加えてこの条約は第24条にて、「インクルーシブ教育システム構築」の要請を明確に定めており、一国家が署名・批准するからにはその実践が政府に求められるのだ。
この要請は厳密に言えば「基本インクルーシブ」の実践であり、個別の難しい案件すべてに至るまで完全にインクルーシブにせよと言っている訳ではない。あらゆる事情が許す限り基本インクルーシブであれ、という極めてマイルドな要請なのだ。
ところが日本は署名から19年、批准から12年が経った今も、「基本分離教育」の立場をまったく変えようとしていない。これはどう見ても、あらゆる意味で分離する方がメリットが多いという強固な観念のもと、マイルドな要請も意図的に拒否しているとしか考えられない。実際そのような観念への依存を国連も見据えた上で、インクルーシブに舵を切るようにこれまで何度も勧告が出されているのだが、あえてそれに従わない態度でいるのがこの国の実情なのだ。
やると言いつつやらない、まさに「やるやる詐欺」である。
そもそもインクルーシブの意義は「共生」によって「共感」を養い、その結果として差別意識の醸成を根底から阻止しようとする点にある。ところがこの国は、条約批准後も基本分離教育の継続によりその意義の具現化機会を奪ったばかりか、健常・障害の間に立ちはだかる「見えない壁」の構築をより助長する結果を招いた。分離されて育った者が「分離の何が悪いのか?」と考えるようになるのは当然の成り行きだろう。あからさまに意義とは真逆の方向に導いて来た。その事実は明白である
まさにその結果としての、この「薄気味悪さ」なのだよ。
以上、件記事のライターは薄い内容などではなく、ちゃんとした物書きをしていたと思うが、この問題についてずっと見てきた俺の観点から少し補足を入れてみた。
問題、そして事態は極めて根深い。ジャニーズの件同様、BBCがこの痴態を記事にして世界に発信でもしてくれたら、批判者達および政府も少しは恥ずかしいと感じるようになるのだろうか?


