至極当然の判決が出た。この問題に係る裁判ではそのすべての判決で「違憲」を認め、争点は実質的に国の主張する「除斥期間」を認めるかどうかに絞られていたが、最高裁はこれを否定し、国に賠償を命じるとともに唯一除斥期間を理由に原告請求を棄却した仙台高裁の決定を破棄し、審理を差し戻した。

 

 

この国は、本人の同意無しに不妊手術を強行するという世にも悍ましい行為を、信じがたいことに1996年まで続けていたのだ。それが基本的人権を柱とする日本国憲法に反していることなど誰の目にも明らかだったのは言うまでも無い。にもかかわらず21世紀の夜明け前まで、自ら制度を廃止することもなく連綿と行われた事実は、いかにこの国の人々が「権利」というものへの理解を欠いているか、いかに国民主権の本質を見誤っているかを示す揺るがぬ証拠だと言える。

 

この問題の根深さは、その悍ましい行為の源が決して「政治の誤り」にとどまっていない所にある。上記記事についたヤフコメを読めば判るとおり、かなりの割合でこの判決を不服とする主張が見られる。

 

そうした主張の趣旨は、ほとんどが「障碍者が生んだ子供を誰が育てるのか?」「障碍者の子供はやはり障碍を持つ可能性が高いのではないか?」「結局、国のお世話にならざるを得ないのではないか?」といったもので、要は障碍者は社会のお荷物であり、自己責任の範疇に収まらず国が面倒見なければならない案件だから、不妊手術をもって解決を図るのも止むを得ないだろうという見解である。

 

まったくもって呆れかえるしかないが、これが現実なのだ。この国はいまだにこんな連中で溢れかえっている。このような考えを持つ連中の立場は、つまりはこういうことだ。

 

「国(全体)の価値・利益は、個人(一部)の価値・利益に勝る」

 

基本的人権、および国民主権(すべての国民が主権者)の概念を1ミリも投影しない、これぞ模範的な全体主義思想である。明治政府が国家統制ツールとして導入した、旧き悪しき精神性がいまだ亡霊のように息づいているのだ。

 

この状況が示すとおり、このクソみたいな国をかたち作っているのは政治の誤りではなく、見るからにクズな伝統的日本国民の仕業だ。全体主義は「全体」のために「部分」の利益を蔑ろにするのだから、当たり前のように差別をする。差別は全体主義の燃料となり、主張するマイノリティに対しては確実に攻撃を仕掛ける。アイヌ差別も沖縄軽視も、車いす排除も子持ち様バッシングも、すべては全体主義を導いた明治以来の予定調和でしかない。差別感情による権利の否定ーこれは、このクソ国家を構成するクズ国民の本質的了解によるものなのだ。

 

 

当然、国連からあれだけ念を押されていながら政府がインクルーシブ教育を実践する気がまったく無いのも、つい最近まで違憲丸出しの優生保護法でシレっと強制不妊していたのと無関係な訳がない。

 

 

この恥ずかしくも悍ましい「なんちゃって民主主義国家」は、自国民に対して本気で差別行為を実践し、出来る限り邪魔者を排除し、どうしても排除出来ない邪魔者には「慎ましくしておけ」と言って黙らせる。どこからどう見ても基本的人権を尊重する気のないその振る舞いは、残念なことに政府の横暴などでは全くなく、全体主義を容認するクズ国民の模範的態度に結びついているのだ。俺はこんなクソ国家がいつまでも生き延びるのを決して希望しない。天変地異でも戦争でも人災でもなんでもいいから、さっさと滅び去ってしまえばいいと心底思っている。