障害者権利条約の締結国に対して、国連の権利委員会による審査が行われた。条約をちゃんと守っているのかどうか、問題があるとしたらどこをどう改善するべきなのか。その審査の場で、例えば条約で求められている「原則インクルーシブ教育」の実施について、日本政府は権利委員会に対してこう答えたそうだ。
「特別支援学校と普通学校のどちらに通うかは、本人と保護者の意見を最大限、尊重している」
政府のこの説明は事実ではない。現場では本人と保護者の意見ではなく、可能な限り「現場の事情」が優先される。必要とされる設備が無い、人手が無い、対応するための時間が無い、などなど。結果、インクルーシブ教育の体現である普通学校への進学を本人・保護者が希望しても、ほぼ確実に特別支援学校への入学を提案されることになる。手厚い支援の全てを普通学校の枠組みから分離して特別支援学校に集中させるやり方を「分離教育」と言うが、日本では「原則インクルーシブ教育」ではなく、未だに「原則分離教育」が徹底されているのである。
一応誤解の無いように付け加えると、この状況の原因・責任は教育現場の担当者には無い。何が起きているのかというと、現場に必要なリソースの整備・配備を、国がなかなか進められずにいるのだ。
しかし、現実、出来ていないのなら「出来ていない」と言えば良いし、「鋭意努力しており、いついつまでにどれぐらい達成するつもりだ」と述べれば良いだけだ。それなのに何故、政府は「特別支援学校と普通学校のどちらに通うかは、本人と保護者の意見を最大限、尊重している」などと出鱈目な報告をするのか。
日本には伝統的に差別が蔓延っている。伝統文化そのものに差別が埋め込まれている。革命的転覆を経験した事のない我が国では、差別を差別とも思わぬままに古き良き伝統を継承し、その香しく美しい文化を享受して来た。東京五輪の本丸とも言えそうな「神の国」の森ウータンが女性蔑視発言をして表向きの謝罪とともに逆切れした事件を思い起こせば、日本では本当の差別になど誰も気が付いていないと良く判る。
(過去記事ー『産経の主張にはビジョンが無い』参照)
差別の対象は常に「マイノリティ」である。伝統的日本においては、マイノリティは「慎ましく控えめ」である場合に限って評価される。仮にマイノリティが大きな声を上げれば、皆が眉をひそめて顔を背け、後ろ指を指すようになる。「慎ましく控えめ」なのは日本の伝統的美徳であるが、その美徳が結果的にはマイノリティへの差別と上手く結び付いていくのだ。
例えば、女はあらゆるビジネスフィールドで相対的にマイノリティだから、行儀良くしていれば大事に扱われるが生意気だと疎まれる。同様に、障害者も大人しくしているうちは同情されるが、主張し始めた途端に邪魔者扱いされる。「立場をわきまえないマイノリティ」に対して、日本人は殊更に冷たく当たる傾向にある。
これが日本の伝統であり、日本人の本音だ。ただ、ほとんどの人々は普段は差別を口にしない。森ウータンと同様に「例え心の中で差別してはいても、口に出さなければ差別では無い」と信じ、そしてその通り、なるべく口には出さずに心の中で差別している。が、差別対象が控え目なうちはそうして居られても、主張するのを見ると我慢出来なくなり、馬脚を現してしまう。
日本政府も、今回条約をきちんと守っているか「審査」される立場となって、どうやら同じようにして馬脚を現してしまったようだ。
「特別支援学校と普通学校のどちらに通うかは、本人と保護者の意見を最大限、尊重している」
「最大限、尊重している」という政府のセリフ。これを権利委員会に向かって言っている所がミソだ。実のところ権利条約においては、「尊重するのが当たり前」であって、そんなことはあえて言う必要の無いことなのだ。ところが政府はわざわざこのセリフを持ち出しただけでなく、さらに「最大限」などというエクスキューズワードを付けた結果、「尊重してやってるんだぞ」という気持ちが滲み出てしまった。森ウータンで問題になった女性蔑視と同様、表向きだけ「差別を口にしない」として本音を隠しているだけで、この国で本当に差別を解消しようなどとは全く思っていない。
「意見は出来るだけ聞いてやる。」
「我々はちゃんとやってる。」
「いろいろ良くしてやってるだろう?」
しかし、実際に本人と保護者が普通学校を希望すると、
「それは我儘だ。」
「あなた方だけ特別扱いなんて出来ない。」
「権利だけ主張するなんて通らない。」
普通学校を強く希望すれば希望するだけ、もっと強い拒否が跳ね返って来る。すべては「慎ましさ、控えめ」の美徳、「立場をわきまえろ」という日本の伝統に繋がる。政府がなかなかインクルーシブ教育の実践を進められないのは、そこに莫大な費用がかかるという事実を、日本人の伝統的美徳感覚から、どうしても受け入れることが出来ないからだ。
「マイノリティは慎ましくしてろ。それなりの取り分は当てがってやるから。」
はっきり言って日本においては、差別は永遠に解消出来ない。森ウータン、小山田圭吾だけを追放すればそれで済むというような簡単な話では無い。日本国民はその伝統から、全員が差別の下に生まれているのだよ。初めに差別有りき。そこで思考停止しているからこそ、日本は「神の国」なのだ。