山本五十六の遺髪 | 歴史ニュース総合案内

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 大分市の県立先哲史料館は10月17日、旧日本海軍連合艦隊の山本五十六司令長官(1884~1943)の遺髪が、海軍兵学校時代からの親友の遺品から見つかったと発表した。対米開戦に反対していた2人の友情を偲ぶ新たな資料だ。

 遺髪は、杵築市に生まれた堀悌吉中将(1883~1959)が保管していた山本の遺影写真と額縁の間に挟まっていた封筒に入っていた。封筒には教養高くフランス語で「切った髪の毛」と記されていた。堀の遺族から6142点の遺品を寄贈された先哲史料館が調べて発見した。堀のノートに山本戦死後の1943年5月23日に受け取ったとあり、山本が海軍に堀を遺髪の受け取り相手にしていたことが分かる。

 

 近代戦争の悲惨さを海軍兵学校時代から自覚していた堀は、長岡藩に生まれた高野五十六(1916年に改姓)と兵学校の時から1年先輩の親友となった。日露戦争では、異なる戦艦に乗ったが、第一次世界大戦後の軍縮会議には参加した。

 堀は戦争に否定的ながらも条約派(軍政派)の派閥にて海軍で出世していたが、1928年の上海事変で一般市民を巻き込む武力行使を避けたのが非難され、艦隊派の手で予備役に編入されてしまった。堀はその後、日本飛行機や浦賀ドックの社長になり、飛行機重視主義者だった条約派・山本が立身した海軍を後方支援した。

 堀は山本五十六の遺書「述志」の受取人でもある。そんな側面が強調される堀だが、先哲資料館で堀は海軍の英才として先哲叢書の一人に数えられている。