13年前のこの日、私は結婚しました。夫が生きていたらスイートテンダイヤモンドはとっくにもらってたりしたのかしら!?
その旦那様は9年前に天国に召されまして、ブログで何度か書いた事があるけど、肉好きな夫の遺言は
「記念日には肉を食え!」
11月10日、仕事は入れずにセーブしてたのだけど、
打ち合わせしなくてはいけない案件が怒涛に押しよせるも他の日はスケジュールパンパンでどっこも入れられず、結局この日も朝から晩までガンガンに入れちゃったのよね・・・
ってなわけで、遺言の肉を食べれるようになったのは、23時頃!
しかーし、わたくし、約束は果たす性分。それからでも肉が食べられるお店探して行きましたとも。
夫はお酒はあまり得意ではなかったので、ドリンクはコーラ。
お店の人はもちろん事情を知らないので、私の所にビールもコーラも置きましたが、
向かいの席にコーラを置き、乾杯、をしたのを見てくれたのでしょう、
その後、取り皿とお箸やコースターなどを、もう一人分セットしてくれました。
ナイスホスピタリティー。
いつもは夫の写真持ってくんだけど、今回は自宅に取りに戻ると肉を食すのが日を跨いでしまいそうだったので、断念。ま、想像でご勘弁を~と天国に向かって弁明(笑)
今流行りの、熟成肉のステーキ
熟成肉の牛カツ
まー、1人では全部食べれないよね。
これ、記念日のたびにやってて、いい加減、1人飯はさみしいんだけどね。でもこの時に携帯とかいじってたら、目の前に旦那様降りて来てたら、おかしな構図だしね(笑)
なので、ひたすら一人で黙々と食べるに徹するのだ。
でも、いつも、感じる事がある。
左手をポンとテーブルに置くと、その上がフワっと温かくなるの。
動かさずにじっとしていると、じわじわとどんどん温かくなっていく。
きっと、いや絶対、旦那様がそこに居て、手を握ってくれてるんだな、と思う。
今回は、お店の入り口に一番近い席で、この日はすごく寒かった。
ブルブル震えながら、体冷え冷えだったんだけど、左手だけ、ホワっと温かくなったから、絶対そう。
「あ、今ここに居るね。今回も来てくれたんだね」
って感じた。
もう時間遅くなっちゃったしお腹すいてないから、肉食べに行くのやめよっかなー
と思ったけど、きっと夫も楽しみにしていただろうから、やっぱりその時間からでも行って良かったわ。行くの面倒がってごめん(笑)
さて、最近❝尊厳死❞について話題になりましたよね。
ちょうど結婚記念日の頃だったので、私もそれについて考えてみました。
【アメリカで脳の末期ガン患者ブリタニー・メイナードさん(29歳)が尊厳死を予告し、自ら命を絶ったニュース】
http://labaq.com/archives/51837879.html?utm_content=bufferfcd5d&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer
夫のガンは、骨転移していたので、たまに、意識がもうろうとするほど、気絶の一歩手前なほど、痛がりました。
自宅療養の時、たまにそれは発作的に起ります。
その様子は、ドラゴンボールの悟空が敵にやられて瀕死な状態の時に発する、声にならない声、
でもがき苦しんだり、
「殺してくれー!!」
と泣き叫んだり、
「殺してください…死なせてください…」
とうわ言のように声にならない声で訴えたりしました。
内臓の痛みはモルヒネで結構緩和できたんだけど、骨のガンの痛みに効く薬は無いそうです。(今は知らない。11年前の当時)
だって、痛み止めとして処方される薬は、内臓系「モルヒネ」に対して、骨用は「ロキソニン」ですよ!ロキソニンって、風邪で熱がある時でも出される程度の薬。
初めてその説明を受け、ロキソニンをもらった時、
「嘘やろー!?!?」
と思いました。
たびたび襲う、強烈な骨の痛み。
もがき苦しんでいる夫を、ただ眺めるしかない私。
でも、一緒になって、泣いたりハラハラしたところで彼の痛みが減るわけじゃないからって、暴れて危険な目に合わないよう、冷静に見ている私。
「脚をちょん切ってくれー!!」
と夫は叫び続けます。多分、その場に包丁があったら、自分で脚を切り落としていたかもしれません。
ひとしきり、悶え、気を失うように、鎮静。しゃべれるようになった時に、
「殺してくれ!って叫んでたよ」
と言うと、
「え!?そう言ったのか。記憶ないなぁ」
と夫。
でも、脚は本当にちょん切ってくれた方がマシなんじゃないか、と思うほど、痛いんだそうです。ものすごい力で脚を引きちぎられるような痛み、と称していました。
『余命2~3か月の肝臓の末期ガン。骨転移=全身の転移ガン。
手術不可能。治療法:特に無し。』
夫の病状は発見当時、最初からこれを告げられました。
そんなだったし、刻々と耐えがたい痛みが襲う頻度が増すと、夫も自暴自棄になりました。
ある日こんな事が。
インターネットが流行り始めた頃だったかな。
新し物好きな夫は世間よりいち早くインターネット駆使者。
何か薬のようなサイトを見ていたので、
「何見てるの?」
と聞いたら、
「ドラッグ。薬でラリってりゃ苦しいのも軽減すっかなと思って」
と言うので、
「そんなの絶対ダメ!!」
と私は言って、彼の見ているパソコンを奪った。
海外から、麻薬?日本ではNGなドラッグを輸入する、と言うのです(そんな事出来ないかもしれないけど、当時は私は若すぎて(23歳)分からなかった)。
「よこせ!」
「嫌!」
「俺の自由にさせろ!」
「絶対ダメ!!」
押し問答の末、
「こんなに辛いのに、殺してもくれない!死なせてもくれない!なんでだよ!
俺、もうこんなにがんばったじゃないか!
頼むから、好きにさせてくれよ!!!」
と、大泣きしながら叫んでいた。
それも、私は、ただ、黙って彼を眺めた。
こんなこともあった。
たくさんの薬漬けで、自律神経が崩れたのだろう、不安もあるからだろう、
夜眠れなくなったので、睡眠薬も処方され始めた。
ある日、私の見ていないところで、夫は1錠でいい睡眠薬を2錠飲んだ。
すると、手の付けられないタチの悪い酔っ払い、みたいになり、急に玄関に向かって靴も履かずに出かけようとしたので、
「もう夜中の2時だよ、今出かけても暗いしそんなフラフラじゃ危ないよ!」
と阻止したら、
ものすごい力で私を跳ね除け、出て行こうとする。
私は何が何でも❝絶対外に出してはいけない!❞と思い、夫の脇をすり抜け、玄関に立ちふさがって夫の腕を掴んだ。
「どけ!!」
「離せ!!」
とかなんとか暴言を吐かれながら、掴んでいる腕も振り払われようとされたが、必死で彼の腕に喰らいついて、離さなかった。
この時は「DVってこんなかな」と思うほど、暴力に近い暴れっぷりだった。
なぜ外出を許さなかったのかというと、靴を履こうとしていない程意識が飛んでいたし、
外に出て、またあの骨の痛みが襲って来たら危ないのと、確かそれは夫が分厚いトレーナーを着ている映像が今も鮮明に浮かぶから、真冬だったんだと思う。なので、その時夫を絶対外に出すべきでは無い!と思い戦った。
玄関で、暴騰の末、何とか、私が勝った!
ものすごい力だったが、私の根性と火事場のくそ力、に彼は根負けしたのか。
でも、玄関で突っ伏して、
また、彼は大人げなく、大泣きした。わんわん泣いていた。
それもまた、私はただ、冷静に、彼を見つめた。
そんな日々の繰り返しで自宅で過ごす日々だったが、腰の骨のガンが育って来たため、彼は徐々に歩くのが困難になって来た。
そしてある日
「俺、そろそろ、ホスピスに入るよ」
夫は自ら言った。
それからみるみる間に下半身の神経が稼働しなくなったので、夫は歩くことは出来なくなったが、下半身の痛みが起きることは無くなった。
自宅療養から、ホスピスのベッドの上と移動時は車椅子という生活にチェンジ。
下半身不随となり、悪魔の骨の痛みが無くなった分、楽になったようだった。
でも、プライドの高い彼は、自分の脚で歩けない事が受け入れられず、最初は抵抗し、ホスピスに居つつも、骨の放射線治療を望んだ。
日本のホスピスはおかしなシステムで、一切の生きるための治療は放棄しなくてはいけない。入院したホスピスは、「もし放射線受けたいなら、うちでは治療は受けさせてあげられないので、他の病院に行くしかない」と言う。
移動が辛いけど、それでも彼はもう一度自分の脚で歩きたい、と、
放射線治療のために、別の病院へ通った。
いつか、ホスピスのそういう変な決まりを緩和して、患者が望む選択肢を自由に選べるようになって欲しい(もう10年前の話だし、変わっているかもしれませんが)。
その甲斐あって、まったく歩けなくなっていた夫は、一瞬、ほんの数歩だけど、自分の脚で歩けた数日間があった。
夫は、
「歩けるようになった!!」
ととてもとても嬉しそうだった。
すぐまた歩けなくなったが、その時は彼は落ち着いていた。
そうしているうちに、今度は腹水がたまるようになり、普通ガン患者が抜く量は2~3リットルだそうだが、夫は8リットルも抜くほどたまるようになった。
8リットル抜いても、まだ3リットル位腹水は溜まっていた。
ドクターが「これ以上抜くとものすごい負担になるので、この辺で」
と言っていつも途中でやめるのだ。
夫は楽になりたいから
「もっと抜いて欲しい」
と言うのだけど。
そして、しばらくはちょっと楽になるんだけど、また数日で溜まり始める。
お腹が風船のようにパンパンに、針刺したらその風船が破裂するんじゃないか、ってほど、めいっぱいにお腹が膨れる。元々キレイな深い穴の形だった夫のおへそが、腹水に押されて見事な出ベソになるほどに。
腹水を抜くと、呼吸が楽にできるようになるんだけど、水を抜いてペタっとなったお腹を触ると、そこには、岩のように固い❝何か❞があった。
ガンだ。
そのサイズは、それはそれは大きかった。草履ぐらいかな。とにかく体の中身、内臓という内臓全部が悪性腫瘍と化してカチカチに触れられた。
ゴツゴツ固くて、なんでこんな岩みたいのが、人間の体に入ってるんだろう、とゾっとした。
そんな日々を過ごしながら、ホスピスに入って9か月後に夫は他界した。
本当はもう余命いくばくもなく、1か月ももたない状態だから、と、ホスピス入居待ちな人達をすっ飛ばして即入院させてもらえた程の病状だったにも関わらず、夫は9か月も生きてくれた。病院の先生も驚くほどに。
(あ、余談ですが、ホスピスに入るのも順番待ちなんです。入院前それを知った夫は「死ぬための場所なのに、死ぬのですら順番待ちかよ」と嘆いていました。)
そのホスピスが居心地が良く、先生もスタッフさん達もとても良い方々ばかりで、病院のご飯も美味しかったから、かもしれない。
おかげでその9か月間、私達夫婦は、片時も離れず、毎日楽しく、毎日深く語り合えた。
そこに至るまで、たくさん辛い苦しい事があり「自殺させてくれ」と懇願された日もたくさんあった。でも、当時の私は、自分で命を絶たれてしまうのは、考えられず、決して首を縦に振ることはなかった。
彼の闘病生活は3年半。
余命2~3か月から始まったわけだから、すでに厳しい病状からのスタートで、彼には辛い思いをたくさんさせてしまったと思う。
でも、最後の9か月間、
私達は、毎日が、何を見てもキラキラ輝いて見え、何を食べても美味しいねって、一緒に居れて楽しいね、大好き、愛してる、ありがとう、
そんな幸せな事だらけの日々になった。
夫は、
「俺は、33歳までわがまま放題好き勝手生きてきて、人の3倍いい思いしたからなぁ。そう思うと、中身的には99歳だ!ほんと、普通の奴らよりよっぽどいいラッキーな人生だった。だから、幸せだ」
と毎日心から、言っていた。
頼りなく、ふぬけな私が一人になっても大丈夫なように、その9ヶ月間は厳しく躾もされた。
そして、その躾が完了してから、1人立ち出来るようになった私を見て、安心するように、彼は天国へと旅立って行った。
❝尊厳死❞
すごくデリケートで、すごく難しい問題。
夫を亡くした私は、今、どう考えるだろう、とこのニュースを見た時からずっと考えていた。
結論は…
と阻止したら、
ものすごい力で私を跳ね除け、出て行こうとする。
私は何が何でも❝絶対外に出してはいけない!❞と思い、夫の脇をすり抜け、玄関に立ちふさがって夫の腕を掴んだ。
「どけ!!」
「離せ!!」
とかなんとか暴言を吐かれながら、掴んでいる腕も振り払われようとされたが、必死で彼の腕に喰らいついて、離さなかった。
この時は「DVってこんなかな」と思うほど、暴力に近い暴れっぷりだった。
なぜ外出を許さなかったのかというと、靴を履こうとしていない程意識が飛んでいたし、
外に出て、またあの骨の痛みが襲って来たら危ないのと、確かそれは夫が分厚いトレーナーを着ている映像が今も鮮明に浮かぶから、真冬だったんだと思う。なので、その時夫を絶対外に出すべきでは無い!と思い戦った。
玄関で、暴騰の末、何とか、私が勝った!
ものすごい力だったが、私の根性と火事場のくそ力、に彼は根負けしたのか。
でも、玄関で突っ伏して、
また、彼は大人げなく、大泣きした。わんわん泣いていた。
それもまた、私はただ、冷静に、彼を見つめた。
そんな日々の繰り返しで自宅で過ごす日々だったが、腰の骨のガンが育って来たため、彼は徐々に歩くのが困難になって来た。
そしてある日
「俺、そろそろ、ホスピスに入るよ」
夫は自ら言った。
それからみるみる間に下半身の神経が稼働しなくなったので、夫は歩くことは出来なくなったが、下半身の痛みが起きることは無くなった。
自宅療養から、ホスピスのベッドの上と移動時は車椅子という生活にチェンジ。
下半身不随となり、悪魔の骨の痛みが無くなった分、楽になったようだった。
でも、プライドの高い彼は、自分の脚で歩けない事が受け入れられず、最初は抵抗し、ホスピスに居つつも、骨の放射線治療を望んだ。
日本のホスピスはおかしなシステムで、一切の生きるための治療は放棄しなくてはいけない。入院したホスピスは、「もし放射線受けたいなら、うちでは治療は受けさせてあげられないので、他の病院に行くしかない」と言う。
移動が辛いけど、それでも彼はもう一度自分の脚で歩きたい、と、
放射線治療のために、別の病院へ通った。
いつか、ホスピスのそういう変な決まりを緩和して、患者が望む選択肢を自由に選べるようになって欲しい(もう10年前の話だし、変わっているかもしれませんが)。
その甲斐あって、まったく歩けなくなっていた夫は、一瞬、ほんの数歩だけど、自分の脚で歩けた数日間があった。
夫は、
「歩けるようになった!!」
ととてもとても嬉しそうだった。
すぐまた歩けなくなったが、その時は彼は落ち着いていた。
そうしているうちに、今度は腹水がたまるようになり、普通ガン患者が抜く量は2~3リットルだそうだが、夫は8リットルも抜くほどたまるようになった。
8リットル抜いても、まだ3リットル位腹水は溜まっていた。
ドクターが「これ以上抜くとものすごい負担になるので、この辺で」
と言っていつも途中でやめるのだ。
夫は楽になりたいから
「もっと抜いて欲しい」
と言うのだけど。
そして、しばらくはちょっと楽になるんだけど、また数日で溜まり始める。
お腹が風船のようにパンパンに、針刺したらその風船が破裂するんじゃないか、ってほど、めいっぱいにお腹が膨れる。元々キレイな深い穴の形だった夫のおへそが、腹水に押されて見事な出ベソになるほどに。
腹水を抜くと、呼吸が楽にできるようになるんだけど、水を抜いてペタっとなったお腹を触ると、そこには、岩のように固い❝何か❞があった。
ガンだ。
そのサイズは、それはそれは大きかった。草履ぐらいかな。とにかく体の中身、内臓という内臓全部が悪性腫瘍と化してカチカチに触れられた。
ゴツゴツ固くて、なんでこんな岩みたいのが、人間の体に入ってるんだろう、とゾっとした。
そんな日々を過ごしながら、ホスピスに入って9か月後に夫は他界した。
本当はもう余命いくばくもなく、1か月ももたない状態だから、と、ホスピス入居待ちな人達をすっ飛ばして即入院させてもらえた程の病状だったにも関わらず、夫は9か月も生きてくれた。病院の先生も驚くほどに。
(あ、余談ですが、ホスピスに入るのも順番待ちなんです。入院前それを知った夫は「死ぬための場所なのに、死ぬのですら順番待ちかよ」と嘆いていました。)
そのホスピスが居心地が良く、先生もスタッフさん達もとても良い方々ばかりで、病院のご飯も美味しかったから、かもしれない。
おかげでその9か月間、私達夫婦は、片時も離れず、毎日楽しく、毎日深く語り合えた。
そこに至るまで、たくさん辛い苦しい事があり「自殺させてくれ」と懇願された日もたくさんあった。でも、当時の私は、自分で命を絶たれてしまうのは、考えられず、決して首を縦に振ることはなかった。
彼の闘病生活は3年半。
余命2~3か月から始まったわけだから、すでに厳しい病状からのスタートで、彼には辛い思いをたくさんさせてしまったと思う。
でも、最後の9か月間、
私達は、毎日が、何を見てもキラキラ輝いて見え、何を食べても美味しいねって、一緒に居れて楽しいね、大好き、愛してる、ありがとう、
そんな幸せな事だらけの日々になった。
夫は、
「俺は、33歳までわがまま放題好き勝手生きてきて、人の3倍いい思いしたからなぁ。そう思うと、中身的には99歳だ!ほんと、普通の奴らよりよっぽどいいラッキーな人生だった。だから、幸せだ」
と毎日心から、言っていた。
頼りなく、ふぬけな私が一人になっても大丈夫なように、その9ヶ月間は厳しく躾もされた。
そして、その躾が完了してから、1人立ち出来るようになった私を見て、安心するように、彼は天国へと旅立って行った。
❝尊厳死❞
すごくデリケートで、すごく難しい問題。
夫を亡くした私は、今、どう考えるだろう、とこのニュースを見た時からずっと考えていた。
結論は…
“わからない”
ただ、自分のしたいように出来るなら、そうするのがいいと思う。
ただし、家族や恋人が理解してくれるなら。
反対してたら、その人達がずっと引きずってしまうから、ちょっと待てるなら待って。
でも…、まだ生きてみたら、その先に、自分の想像を遥かに超えたものすごく幸せな発見があるかもしれない。それを見つけに行くのも、アリだと思う。
ただ、自分のしたいように出来るなら、そうするのがいいと思う。
ただし、家族や恋人が理解してくれるなら。
反対してたら、その人達がずっと引きずってしまうから、ちょっと待てるなら待って。
でも…、まだ生きてみたら、その先に、自分の想像を遥かに超えたものすごく幸せな発見があるかもしれない。それを見つけに行くのも、アリだと思う。