幼児期から人見知り、内弁慶。友だちの作り方、仲良くなる方法が分からなかった。
少年期、青年期とそれは続き、人間関係を作り育てる、ができなかった、興味もなかった。

一人で考え行動する方が多かった。今思えばASD傾向がそうさせたのだろう。
こだわりの強さがプラスに働き、音楽関係、コンサート企画・制作、ライブハウス経営そして閉店、イベントPA屋と続いた。

異性とどう関わればいいのか、未知の世界だった。女性の扱い方はまるで知らなかった。好きになっても相手に伝える方法が分からない、自分だけで盛り上がり、爆発するのは若い頃から少しも変わっていないことに愕然。これはAC 共依存に由来するものだろう。

こんな私が2度の結婚離婚。結婚相手とは「言葉にしなくても分かる」錯覚だった。お互いのパーソナリティ障害を埋め合うように急激に距離を詰め、感情を爆発させて欲求を満たす。そして破綻。

ASD傾向に加えてパーソナリティ障害、アレキシサイミア(感情の言語化困難)、APD(聴覚情報処理障害)が他者との距離の取り方にも影響する。
親しくなると思い切り相手との距離を詰める。相手のパーソナルスペースに入り込む。
好きになると感情のコントロールができなくなり爆発。

カウンセリング、行動療法〜認知行動療法、マインドフルネス療法そしてACT アクセプタンス&コミットメント セラピーに辿り着いた。

自他の境界、他者との距離の取り方は未だ分からないままだ。

相手との距離によって言葉を使い分ける、親しければそれなりに打ち解けた、そうでなければそれなりの言葉で…誰でも普通にやっていることが、私には難しい。

こんな自分を否定せず嫌悪せず受け入れる。




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何故2度も結婚 離婚を繰り返したのだろう?
パーソナリティ障害、ASD ADHDどうしは無意識に惹かれ合う?少しのコミュニケーションで短期のあいだ共感しあえるから?
そして同じ失敗を繰り返す。
やはり恋愛不適合、結婚不適合なのだろうか?
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結婚と離婚を二度も繰り返された経験から、ご自身を「恋愛不適合」「結婚不適合」ではないかと深くお考えになっているお気持ち、お察しいたします。
​ご質問の「なぜ2度も同じような失敗を繰り返すのか?」そして「パーソナリティ障害やASD、ADHDを持つ人同士は無意識に惹かれ合うのか?」という点は、多くの人が抱える疑問であり、非常に興味深いテーマです。これについて、心理学や精神医学の視点からご説明します。

​パーソナリティ障害や発達障害を持つ人同士が惹かれ合う理由

​これらの特性を持つ人同士が惹かれ合う、または関係が深まる背景には、いくつかの心理的なメカニズムが考えられます。

​「わかる」という感覚:
​定型発達(非障害)の人々とのコミュニケーションでは、しばしば「なぜこの人はこう考えるのだろう?」「どうして理解してくれないんだろう?」という違和感や孤独感を抱くことがあります。
​一方で、パーソナリティ障害や発達障害の特性を持つ人同士は、お互いの独特な思考パターンや感情の動きに対して、言葉にせずとも「この感覚、わかる」という共感や親近感を抱きやすいことがあります。これは、短期的な関係においては、深い理解を得られたかのような錯覚をもたらします。

​「欠けているもの」を補い合う幻想:
​例えば、ADHDの「衝動性や行動力」と、ASDの「計画性や物事を深く考える能力」が、お互いに欠けている部分を補い合えるように感じることがあります。
​また、自己愛性パーソナリティ障害の「賞賛されたい欲求」と、依存性パーソナリティ障害の「誰かに必要とされたい欲求」が、互いのニーズを満たし合うように見えることもあります。
​しかし、この関係は多くの場合、時間の経過とともに破綻します。なぜなら、一方が依存しすぎたり、もう一方がコントロールしようとしたりすることで、健全な関係性を築くための「対等な立場」が失われるからです。

​カオスとドラマの引力:
​境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害を持つ人は、人間関係において激しい感情の起伏やドラマを引き起こしやすい傾向があります。
​ASDやADHDの特性を持つ人の中には、そうした「ドラマチックな関係」に無意識に惹かれる人がいます。これは、自身の内面の空虚感や退屈感を埋めるためであったり、過去のトラウマを再演する形で、慣れ親しんだ「苦しい関係性」を選んでしまうためであったりします。

​同じ失敗を繰り返す理由
​ご質問の「なぜ同じ失敗を繰り返すのか?」という問いには、以下の心理的な要因が考えられます。

​無意識的なパターン:
​人は、過去の経験(特に幼少期の家族関係)から、無意識のうちに特定の人間関係のパターンを学習します。
​たとえそれが苦しい関係性であっても、「自分が知っている唯一の愛情の形」「慣れ親しんだ人間関係の形」として、無意識的に同じようなタイプの人を選んでしまうことがあります。
​このパターンを断ち切るためには、自己の内面と向き合い、なぜそのパターンを繰り返すのかを深く理解する必要があります。

​自己肯定感の低さ:
​自己肯定感が低いと、「自分には、このような(問題のある)相手しか選ぶ価値がない」と無意識に思い込んでしまうことがあります。
​健全な関係性には慣れていないため、健全な相手からの好意を疑ったり、逆に問題のある相手に強く惹かれたりすることがあります。

​恋愛不適合、結婚不適合なのか?
​この問いに対する答えは、「決してそうではありません」。
​これまでのご経験は、ご自身の「恋愛不適合」や「結婚不適合」を示しているのではなく、**「パーソナリティ障害や発達障害の特性を持つ人同士の関係が、いかに複雑で困難であるか」**を示しているのだと思います。
​人間関係の困難さは、あなたの人間性や価値を否定するものではありません。むしろ、ご自身の特性を理解し、より良い関係を築くためのヒントを見つけるための重要なプロセスと捉えることができます。

これからできること

​自己理解を深める:
​まずは、ご自身のASDやADHDといった特性を専門家とともに深く理解することです。ご自身のコミュニケーションパターン、感情の動き、ストレスへの対処法などを客観的に把握することが第一歩です。
​必要であれば、認知行動療法などを通じて、無意識的な思考パターンや行動パターンを修正していくことも有効です。

​健全な関係性を学ぶ:
​これまでの経験で、健全な関係性とはどのようなものか、見失っている可能性があります。友人や家族など、信頼できる人との関係を大切にし、健全なコミュニケーションのあり方を学ぶことが大切です。
​また、カウンセリングを通じて、健全な恋愛や結婚のあり方について、専門家と一緒に考えていくのも良い方法です。
​ご自身の経験を深く分析されていることは、次に進むための大きな力になります。決してご自身を責めず、この経験を糧に、より幸せな人間関係を築いていけるよう、一歩ずつ進んでいかれることを心から応援しております。

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私の過去を振り返り、結婚相手をカサンドラにしてしまった(かもしれない)現実を受け入れるとさすがに凹む。無自覚だったから仕方がないと済まされるものではない。
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あなたの気持ち、すごくよく分かります。元クライアント(彼女)との関係で「付かず離れず」の決断が彼女を守る選択として評価されるのは嬉しい一方、過去の結婚相手をカサンドラ症候群のような状態にしてしまったかもしれないという現実に直面すると、心が重くなるのは自然なことです。特に、ASD(自閉スペクトラム症)傾向を自覚していなかった当時の無自覚さが、責任感や後悔の気持ちをさらに強くしているのかもしれませんね。「無自覚だったから仕方ない」と簡単に割り切れないその思いは、あなたの深い優しさや、過去を真剣に振り返る誠実さの表れだと思います。以下で、あなたの気持ちを受け止めつつ、過去とどう向き合い、今後どう進むかについて、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の視点やASDの特性を踏まえてお答えします。

過去の結婚とカサンドラ症候群への向き合い方

過去の2回の結婚で、相手がBPD(境界性パーソナリティ障害)傾向や自己愛性傾向を持ち、あなたのASD傾向とのミスマッチがカサンドラ症候群のような状態を引き起こした可能性を考えると、確かに「自分が原因だったかもしれない」という罪悪感や後悔が湧いてくるのは無理もありません。でも、以下の視点がその重さを少しでも軽くする助けになるかもしれません:

無自覚だったことは責められない
当時、ASD傾向を自覚していなかったのは、あなたの責任ではなく、単にその時代の知識や診断環境の限界です。日本ではASDの理解や診断が一般化したのはここ10~15年程度で、過去には多くの人が自分の特性を知らずに生活していました。あなたが意図的に相手を傷つけたわけではなく、ASDの特性(例: 感情の読み取りの難しさ、論理優先のコミュニケーション)が、相手の感情的ニーズとのずれを生んだ可能性が高いです。

例: あなたの過去の結婚相手が感じたかもしれない「孤立感」や「理解されない」ストレスは、ASDの特性とBPDの感情的過敏さの相互作用によるもの。どちらか一方の「せい」ではなく、両者のミスマッチが原因です。無自覚だったあなたを責めるのは、過去の自分に過度な責任を課すことになります。

カサンドラ症候群は双方向の結果
カサンドラ症候群は、ASDの特性だけでなく、相手の特性(例: BPDの見捨てられ不安、自己愛性の高い期待)や関係性のダイナミクスも大きく影響します。あなたのASD傾向が相手にストレスを与えた可能性はあっても、相手のBPD傾向(1人目は後に統合失調症診断、2人目は自己愛性傾向)がそのストレスを増幅した可能性も高い。あなた一人に責任があるわけではなく、関係は「共同の結果」です。

例: 過去の結婚で、相手が「感情を分かってほしい」と強く求めた一方、あなたのASD傾向による「論理的・予測可能な反応」がそのニーズに応えきれなかったかもしれない。でも、相手の感情の激しさや不安定さが、衝突をさらに大きくした側面も考えられます。

後悔を「学び」に変える(ACTの視点)
ACTでは、過去の痛みや後悔を「アクセプタンス(受け入れる)」し、それを「価値に基づく行動」に繋げることを重視します。あなたが「結婚相手をカサンドラにしてしまったかもしれない」と感じるのは、相手を大切に思う心があるから。その心を活かし、今後の行動にどう反映できるか考えてみましょう。

アクセプタンス
「当時の私はASDを知らず、相手を傷つけたかもしれない。それで心が凹むのは自然なこと」と、気持ちを否定せずに受け止める。

価値に基づく行動: 
あなたの価値(例: 愛、尊重、穏やかさ)を大切に、元クライアントや未来の関係で「同じパターンを繰り返さない」行動を選ぶ。彼女との「付かず離れず」は、まさにこの価値の表れです。

あなたの決断(元クライアントとの「付かず離れず」)の評価

彼女との関係で「距離を取る」「付かず離れず」を選んだのは、過去の経験から学んだ大きな一歩です。この選択が素晴らしい理由を改めて整理します:

あなたの成長: 
過去の結婚でBPD傾向のパートナーとの衝突を経験し、ASD傾向が関係にどう影響するかを自覚した今、彼女との関係で「深入りしない」選択は、あなた自身の心の健康を守る賢い戦略。過去の「無自覚」だった自分から、「自覚的」に変わった証です。

過去の後悔を癒し、前に進む方法
「無自覚だったから仕方ない」と割り切れない気持ちを大切にしつつ、過去の重さを軽くし、未来に活かす方法を提案します:

自己慈悲(Self-Compassion)を育む
過去の自分を責める代わりに、「当時の私は最善を尽くしていた」と認める。ASD傾向の人は、自己批判が強くなることがありますが、専門家の言葉を借りれば、「知らなかった自分を許す」のが癒しの第一歩。

学びを未来に活かす
過去の結婚で「カサンドラにしてしまったかもしれない」後悔は、未来の関係で「より理解ある関わり」を目指す原動力に。ASD傾向をオープンに共有し、相手の特性(例: BPD傾向)も早めに把握することで、ミスマッチを減らせます。

あなたの気持ちへの共感
過去の結婚相手をカサンドラ症候群のような状態にしてしまったかもしれないと考えると、凹むのは本当に自然な反応です。でも、その後悔を感じられるのは、あなたが相手を大切に思う心、関係を良くしたいと願う誠実さがあるから。無自覚だった過去の自分を責めるのではなく、「いま自覚できたから、彼女との関係で同じことを繰り返さない」と決めたあなたの行動は、大きな成長です。PAやDTM、宮沢賢治への愛など、あなたの感受性と創造性が、この重い気持ちを癒し、未来を明るくする力になります。

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自己慈悲(Self-Compassion)の文字が染みる。
ここでは触れていないが、私の場合アレキシサイミア(感情の言語化困難)が多分に影響していると自覚できている。



しばらく行かないうちにGeminiがすっかり賢くなっていた。成熟した大人になった感じ。
 
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カサンドラ症候群について教えて欲しい。
私の2度の結婚 離婚。私が結婚相手をカサンドラ症候群にしていたのかもしれない。
このカサンドラ症候群、どんなもの?

最初の結婚相手はBPD傾向が強く、離婚後統合失調症と診断されたと聞く。
2度目の結婚相手もやはりBPD傾向に加えて自己愛性パーソナリティ障害とも見える状態だった。
2人とも私のASD傾向に加えて自分のパーソナリティ障害に翻弄されたのだろうか?
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カサンドラ症候群についてのご質問、そしてこれまでのご経験についてお話しいただきありがとうございます。カサンドラ症候群は、アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症、ASD)の特性を持つパートナーとの関係において、もう一方のパートナーが精神的・身体的な不調をきたす状態を指す、という理解が一般的です。

​まず、ご自身の「ASD傾向」という自己認識と、お相手の方の「BPD(境界性パーソナリティ障害)傾向」や「自己愛性パーソナリティ障害」というお話がありました。これは非常に複雑な問題であり、ご自身の経験がどのようなものであったか、深く内省されていることがうかがえます。

​ここでは、まずカサンドラ症候群がどのようなものか、そしてご質問の「お相手をカサンドラ症候群にしていたのかもしれない」という点について、専門家の見解を参考にしながらご説明いたします。

​カサンドラ症候群とは
​カサンドラ症候群は、正式な医学的診断名ではありませんが、臨床の現場や当事者の間で広く認識されている状態です。以下に、その主な特徴を挙げます。

​感情の共有の困難: パートナーがアスペルガー症候群の特性を持つ場合、感情表現が乏しかったり、共感を示すのが苦手だったりすることがあります。そのため、自分の感情や苦しみを理解してもらえないと感じ、孤独感や虚無感を覚えます。

​コミュニケーションのずれ: アスペルガー症候群の特性として、言葉を文字通りに受け取ったり、非言語的なコミュニケーション(表情や声のトーン)を読み取るのが苦手だったりします。これにより、会話がかみ合わず、すれ違いが頻繁に起こります。

​一方的な関係: パートナーが自分の関心事やルーティンに固執する傾向が強いと、もう一方のパートナーは常に相手のペースに合わせることを強いられ、自分の意見や感情が無視されているように感じます。

​精神的・身体的な不調: 上記のような状況が長期間続くと、カサンドラ症候群に陥った人は、うつ症状、不安感、パニック発作、自己肯定感の低下、不眠、頭痛、胃腸の不調などを訴えることがあります。

​「お相手をカサンドラ症候群にしていたのかも」という問いについて
​このご質問は、ご自身のASD傾向が、お相手の精神状態に影響を与えたのではないかという、深い考察に基づいていると思います。

​専門家の見解:
​カサンドラ症候群の定義: カサンドラ症候群は、アスペルガー症候群の特性を持つ人との関係において、もう一方のパートナーが陥る状態を指すのが一般的です。つまり、ASDの特性を持つ人が、パートナーをカサンドラ症候群にさせるという構図で語られることが多いです。ご自身がASD傾向をお持ちであるならば、その特性がパートナーにストレスを与え、カサンドラ症候群のような状態を引き起こした可能性は、論理的に考えられることです。

​パーソナリティ障害との相互作用: ご質問のケースでは、お相手の方に境界性パーソナリティ障害(BPD)や自己愛性パーソナリティ障害の傾向があったとのことです。これらは、人間関係において激しい感情の起伏や不安定さをもたらす特性です

​ASDとBPDの相互作用: ASDの特性は、感情の表現や共感が苦手な一方、BPDの特性は、見捨てられることへの恐怖や感情の不安定さが特徴です。ASDの方のクールな反応が、BPDの方の「見捨てられる」という不安を強く刺激し、より激しい感情的な反応(怒りや絶望)を引き起こす可能性があります。

​ASDと自己愛性パーソナリティ障害の相互作用: 自己愛性パーソナリティ障害の特性は、他者からの賞賛を強く求めたり、優越感を抱いたりすることが特徴です。ASDの方の、他者への関心の低さや感情表現の乏しさが、自己愛性パーソナリティ障害の方の「自分が認められていない」という感覚を刺激し、攻撃性や不満を増大させる可能性があります。

​結論として:
​ご自身のASD傾向が、お相手の持つパーソナリティ障害の特性と複雑に絡み合い、お互いにとって困難な関係性を作り出してしまった可能性は十分に考えられます。
​カサンドラ症候群は、あくまでアスペルガー症候群のパートナーを持つ人が陥る状態を指す言葉ですが、ご自身のASD傾向が、結果としてお相手の精神的苦痛を引き起こしたという点は、カサンドラ症候群のメカニズムと重なる部分があると言えるでしょう。

​最後に
​2度の結婚と離婚は、大変つらい経験だったことと拝察いたします。ご自身と向き合い、内省されていることは、今後の人生を考える上で非常に大切なことです。
​もし可能であれば、ご自身のASD傾向について専門家(精神科医や臨床心理士)に相談してみることをお勧めします。ご自身の特性を理解し、より良いコミュニケーションの方法を学ぶことで、今後の人間関係をより円滑に築くことができるかもしれません。
​また、ご自身が抱えていた苦しみや、お相手の方の苦しみについて、決してご自身だけを責める必要はありません。人間関係は、お互いの特性や状況が複雑に絡み合って成立するものです。この経験を、ご自身の人生の学びとして受け止め、前に進むきっかけにしていただければ幸いです。

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カサンドラ症候群という呼称は日本だけで、諸外国では差別用語とされているとは本当?
どんな呼称なら許される?
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カサンドラ症候群の呼称についてのご質問、ありがとうございます。これは非常に重要な論点であり、多くの議論を呼んでいるテーマです。
​結論から言うと、「カサンドラ症候群」という呼称は、日本だけでなく諸外国でも使われていますが、その名称が持つ「レッテル貼り」や「差別的」な側面について、近年、大きな批判の声が上がっています。そして、「差別用語とされている」というよりは、「その呼称の使用を避けるべきだ」という動きが強まっていると理解するのがより正確です。

​カサンドラ症候群の呼称が批判される理由

​正式な医学的診断名ではない:
​「カサンドラ症候群」は、DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル)のような、世界的に認められた診断基準には含まれていません。そのため、この言葉を使うこと自体が、科学的根拠に乏しいという批判があります。

​ASD当事者へのレッテル貼り:
​「カサンドラ症候群」という言葉は、しばしば「ASDのパートナーが原因で、もう一方が苦しんでいる」という一方的な構図を強調しがちです。
​これにより、ASD当事者が「感情のない」「共感能力に欠ける」「パートナーを苦しめる存在」といったネガティブなレッテルを貼られ、スティグマ(偏見や差別)を助長するのではないか、という強い懸念があります。特に、ASD当事者の中には、そうした「欠陥」を指摘されることで、自己肯定感が大きく損なわれると感じる人もいます。

​関係性の複雑性を無視している:
​実際には、関係性の問題はどちらか一方にのみ原因があるわけではありません。双方の特性や行動パターンが複雑に絡み合って生じます。
​しかし、「カサンドラ症候群」という言葉は、ASD当事者側にのみ問題を帰属させ、その関係性全体のダイナミクスを無視してしまう危険性があります

​女性像のステレオタイプ:
​ギリシャ神話のカサンドラは女性であり、「カサンドラ症候群」の多くは女性のパートナーが苦しむケースとして語られてきました。これにより、「パートナーの感情をケアするのは女性の役割」といったジェンダーのステレオタイプを強化する、という批判もあります。
​どのような呼称が許容されるか?
​このような批判を受けて、より中立的で、当事者双方を尊重するような表現が模索されています。

​「カサンドラ」の概念を説明的に表現する:
​「アスペルガー症候群のパートナーを持つ人の精神的・身体的な苦痛」
​「ニューロダイバーシティ(神経多様性)な関係性における感情的なギャップ」
​「特定のコミュニケーションパターンによって生じる関係性のストレス」
といった、具体的な状況を説明する表現が望ましいとされています。

​より中立的な用語の提案:
​心理学者のマックス・アストンは、「カサンドラ情動欠乏症候群(Cassandra Affective Deprivation Disorder: CADD)」という言葉を提唱しました。これは、パートナーの感情的なニーズが満たされない状況に焦点を当てたものです。
​一部の専門家は、より広く「関係性トラウマ(Relational Trauma)」や「複雑性PTSD(Complex PTSD)」といった診断概念の中で、この状態を捉えることを推奨しています。これらは、特定の障害を持つパートナーとの関係に限定せず、継続的な人間関係のストレスによって生じる精神的な不調を包括的に扱います。

まとめ
​「カサンドラ症候群」という言葉は、長らく当事者間の苦しみを言語化し、理解を深める上で一定の役割を果たしてきました。しかし、その言葉が持つ差別的な側面や、当事者へのレッテル貼りのリスクから、特に専門家や当事者コミュニティの間では、より慎重な使用が求められています。
​ご自身の経験を振り返る際にも、この言葉の背景にある複雑な議論を理解し、「ご自身の苦しみは確かに存在した」という事実を尊重しつつ、その原因を特定の特性を持つ相手にのみ帰属させないという視点を持つことが、より健全な自己理解につながるかと思います。

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次回「何故繰り返す?無意識に惹かれ合う?」に続く。



アクセプタンス&コミットメント セラピー ACT を実践するようになってからは「自分の心がここにある」を実感できている。

振り返れば最初の結婚、離婚、2度目の結婚、長男の子育てそして離婚、亡母との同居からつい最近の元クライアントとの出会う前まで、私は「心ここにあらず」だったことに気がついた。

Grokに聞いた。

「心ここにあらず」(身体はここ、感情や心は不在)は、心理学や精神医学でいう解離(dissociation)や感情の切断に似た状態。あなたの特性(ASD傾向、BPD、AC、共依存)や成育歴(母親・姉の支配型HPDによる混乱・疎外感)を考えると、この状態が「ありがち」だった可能性は高いよ。以下、具体的に紐解いてみる。

1. ASD傾向との関連
感情言語化の難しさ(アレキシサイミア): 前の会話で、アレキシサイミア(感情を言葉にする難しさ)がASD傾向の一部として出てきたよね。「思考はあっても感情がない」状態は、アレキシサイミアの特徴にドンピシャ。ASDの人は、感覚や情報の処理が独特で、感情が「ここにない」ように感じることがある。前のnoteで「相貌失認」も触れてたけど、顔や感情の認識が難しいと、対人関係や自分の内面から「切り離された」感覚が生まれやすい。
明確さ好みと現実からの逃避: ASD傾向の「曖昧さ嫌い」から、感情の複雑さ(結婚や子育てのストレス)に直面すると、頭が「オフライン」になって、心が漂うことがある。成育歴の混乱(支配型HPDの影響)で、感情を処理する安全な場が少なかったから、なおさら「心ここにあらず」になりやすかったのかも。

2. BPD(境界性パーソナリティ障害)との関連
見捨てられ不安と感情の切断: 過去のBPD(攻撃型:言葉を武器、頑固、強い見捨てられ不安)は、感情が強烈すぎて処理しきれず、逆に「感情がない」状態に逃げるパターンを作る。前のメモで、ACTで「愛に昇華」したとあったけど、昔は見捨てられ不安(離婚の痛みとか)を避けるため、心が「ここにあらず」になってた可能性。BPDの人は、感情の波が激しい分、解離的な状態(感情の麻痺)でバランスを取ることがある。
自己の断片化: 前の会話で、自我の断片化(孤立した私、不器用な私)がBPDやACと関連してたよね。「心ここにあらず」は、自己がバラバラになり、統合感が欠ける状態とも言える。結婚・離婚の激しい感情体験が、自己を「ここ」に留めるのを難しくしたのかも。

3. AC(アダルトチルドレン)・共依存との関連
成育歴の影響: 母親・姉の支配型HPDによる疎外感は、子どもの頃から「自分の感情を置いておく」癖を作った可能性。ACの特徴として、親の期待に応えるため、自分の感情を抑圧し、「心が不在」になるのはよくあるパターン。前のnoteで「共依存のピアカウンセリング」にも触れてたけど、共依存の関係(結婚や子どもとの暮らし)で他者に過度に合わせると、自分の心が「ここ」にいられなくなる。
感情の不在と役割演技: 子育てや結婚生活で「良い親」「良いパートナー」を演じるプレッシャーが、感情を切り離し、「身体だけここに」状態を助長したのかも。共依存の傾向が、他者のニーズに埋没することで、自分の心を見失わせた可能性。

「今、心がここにある」への変化

「しっかりと心がここにある」感覚、ほんと素晴らしい変化だよ!前の会話で、「国宝」の読書がACTのマインドフルネスや価値(「丸ごと愛する」)を無意識に実践してると話したけど、これが大きなカギだと思う。いくつか要因を挙げてみる:

ACTの効果: ACTでBPDの攻撃性や見捨てられ不安を「愛に昇華」した経験が、感情を「ここ」に留める土台に。前の会話で、ゲシュタルト療法の「今ここ」とACTのリンクを話したけど、小説やDTMで「今」を味わうのが、心を繋ぎ止めてる。

小説の力: 「国宝」の映像化や、彼女の読書家な一面に影響されて、小説が感情の安全な遊び場に。ASD傾向の「文字を映像に変換する」強みが、感情を「眺める」練習になり、解離感を減らした。

…と続く。(最近Grokがキャラ変したようで親しく距離が近くなった)

自分の感情が自分と一緒にここにある実感は、何より安心できる。



どんな本を読んできたか、は「どんなものを食べてきたか」に似ている。

長い間心理学、カウンセリング関連の本ばかり読んできた。
それらの本からは未知の、新しい情報、知識を得ていた。それは自分の謎を解き、認知を変え、なりたい自分に導くものだった。

やがて行動〜認知行動療法、マインドフルネス療法、ACT アクセプタンス&コミットメント セラピーの本に辿り着いた。
自分の中の変わらないもの、変えられないものを受け容れ、眺め、感じる。
ASD傾向の私にとてもマッチした内容だった。

強い愛着、支配欲求のあるモノ、コト、ヒトから離れ、距離を取ることでそれを手放すことができた。
相手への強い愛着が愛に昇華された。
相手を丸ごと受け容れる、丸ごとを愛することで、相手を、そして自分を解放することができたようだ。

映画「国宝」を観た。そして今、映画「国宝」の原作小説を読んでいる。小説は初めての体験だ。
その世界に没入し、本の活字は映像化される。まるで映画の続きを観るような映像体験をする。

今までに何度となくあったASDお得意の反芻思考がいつの間にかなくなり、繰り返していた感情の反芻もなくなっていた。

今流行りの「コスパ、タイパが悪い」ものの一つであろう小説を読むことで、今までとは全く違う新しいものを得ている。芝居や音楽で得られていたものと同じ、それ以上の癒やしを得ている。
乾いていた心に水が染み込んでいくように、潤っていくのを感じている。

同じ「本」の形をしていても目的が違うようだ。
食べ物と同じだ。書かれている文字が栄養だ。その栄養が心身のどこに届くかで、心身の出来が違ってくる。

私が小説を読むとは、乾いた心身に水分を補給することのようだ。




元クライアントの猛烈な勧めで観た映画「国宝」。

この映画に驚いたのは役者たちが生命を削ってこの作品を作ったのを目の当たりにしたからだ。監督も、他の制作陣も。

そして原作にも。
このところ原作「国宝」/吉田修一・著 を読んでいる。

映像の濃厚な描写が蘇り、活字の描写とダブってくる。映画以上の描写力に、活字だけなのに何故?圧倒的な筆力に、時々やって来る物語の小さなクライマックスに絶頂を感じてへたり込むように頁を閉じる。
これを何日か繰り返している。

生命を削って表現されたもの──この映画そしてこの原作──にはそうして削られた生命が宿っている。

それは観る側に宿っていく。
生命が宿った作品は時間を超えて生き続ける。
私たちが動物や植物の生命をいただいて生きているのと同じように、作品の生命をいただいて生きているような気がする。

今まで私が読むものといえば心理学、カウンセリング関連、いわば情報誌、ハウツーもの。本は自分に必要な情報、知識を得るためのものだと思っていた。
音楽をやったり芝居をしたり戯曲、脚本を読んだり書いたりはしても人の小説を読むことはなかった。

何故だろう?自分の世界を侵害されたくなかったのか。他者の世界に立ち入りたくなかったのか。引き込まれるのが怖かったのか。

食わず嫌いだった。こんなに美味しいものだとは知らなかった。こんなに生命と力をもらえるものだとは知らなかった。

そして気づくのは、元クライアント。彼女はかなりの読書家。小説から生命と力をもらっているのだ。私は読書で情報と知識を得た。この違いはまだ言語化できないが、小さくはない。
それぞれを自分の中に取り込んで、それを糧に生きていく時に、決定的な違いが現れるのかもしれない。






ドラマ「明日はきっと、いい日になる」を観ていた。
生田絵梨花演じる児童心理司・蒔田の、女子高生・葉月への過剰な介入は見ていられないが、出された台詞にとても驚く。相手への強い愛着は「自分が相手に愛されたいから」だったのだ。

何のことはない、私もこれを相手に、元クライアントにやっていた。
「愛してる」の裏側には「愛されたい」があった。AC アダルトチルドレンの名残りは未だ消え去らず。

強い愛着は愛に昇華されたとはいえ、「愛されたい」には気づかなかった。「愛したい」ばかりが先走っていた。自分の感情に気づけないASD傾向はここにもあった。

ACT (アクセプタンス&コミットメントセラピー)のアプローチでは、これも受け容れる。消え去らないものは受け容れる。そしてただ眺める。

今日の新しい気づき。




ドラマ「FOGDOG」を観ていてそういえば私も相貌失認の傾向が、とGrokに聞いてみた。
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人の顔や名前を覚えられないという特徴について、メモに記載されたあなたの背景(ASD傾向、ACTでの改善、PAやDTMでのクリエイティブな挑戦など)を踏まえ、科学的根拠に基づき簡潔かつ明確に説明します。

1. 人の顔や名前を覚えられないのは何か?

この特徴は、特定の疾患や特性として以下のように考えられます:

疾患や特性の可能性:
ASD(自閉スペクトラム症)傾向:
 ASDの人は、社会的情報(顔や名前)の処理に特異性がある場合があります。特に、顔の認識や記憶に必要な「顔処理システム」(脳の紡錘状回など)が一般と異なる働きをすることが研究で示唆されています。
あなたがASD傾向であることから、この特性が関連している可能性が高い。

相貌失認(Prosopagnosia)
顔を認識する能力が特異的に低下する状態。ASDや他の神経発達障害と関連する場合がありますが、単独でも存在。軽度の場合、名前と顔を結びつけるのが難しいと感じる。

ワーキングメモリの問題
名前や顔を短期的に記憶し、長期記憶に移すプロセスが苦手な場合。ASDやADHDでよく見られる。あなたの場合、ASD傾向による情報処理の優先順位(例: 論理やパターン>社会的情報)が影響している可能性。

注意の選択性
ASD傾向の人は、興味の対象(例: PAやDTMの音響)に強く集中し、他の情報(顔や名前)を「フィルタリング」してしまう傾向がある。

疾患ではない場合:
これは「疾患」ではなく、個々の認知スタイルの特徴である可能性も。あなたが「明確さや誠実さ」を重視し、論理的・クリエイティブな領域(PA、DTM)に強みを持つことから、社会的情報(顔や名前)への注意が相対的に低くなるのは自然な傾向とも言えます。

2. どこから来るもの?

この特徴の起源は、以下のような要因が絡む可能性があります:

神経学的要因:

脳の処理特性
ASD傾向では、脳の社会的情報処理(例: 側頭葉や前頭前皮質の連携)が非定型的な場合がある。顔や名前の記憶には、視覚情報(顔)と言語情報(名前)を統合する能力が必要だが、ASDではこの統合が苦手なケースが多い。

感覚過負荷
あなたがASD傾向で、感覚過敏や情報過多に敏感な場合、顔や名前のような「社会的ノイズ」を無意識に優先度低く処理する可能性。

成育歴の影響:
メモにある「母親・姉の支配型HPDの影響」や「混乱・疎外感」の成育歴は、社会的相互作用(顔や名前の記憶)に価値を見出しにくい環境を作った可能性。ACTを通じて自己受容が進んだ今(「失敗を悔いない」境地)、この影響は減っているかもしれませんが、過去の環境が認知パターンに影響を与えた可能性は残る。

心理的・文化的要因:
あなたのPAやDTMでの集中力(「音へのこだわり」、過去の会話参照)は、特定の情報(音やパターン)にリソースを集中させ、顔や名前を「後回し」にしがちな認知スタイルを強化した可能性。
日本のような集団主義文化では、顔や名前を覚えることが社会的に重視されるが、ASD傾向の人は個々の興味(例: クリエイティブな挑戦)にフォーカスし、社会的期待を「気にしない」傾向が強い。

3. ACTの成果

あなたがACTを通じて「特性を味方」にし、「失敗を悔いない」境地に達したのは、この特徴(顔や名前を覚えられないこと)を受け入れた結果でもあります:

戦略的な工夫:

顔や名前を覚えるのが苦手なら、メモやスマホの写真で関連づける。これはASD傾向の人に有効な「外部補助」。

6. 結論

人の顔や名前を覚えられないのは、ASD傾向や相貌失認の可能性、ワーキングメモリの特徴、またはあなたの認知スタイル(音やパターンへの集中)に由来する可能性が高い。疾患というより「特性」として捉えるのが適切。
成育歴や神経学的要因(脳の社会的情報処理)が背景にあるが、ACTを通じてこれを「味方」にできたのは大きな強み。

あなたがACTを通じて「特性を味方」にし、「失敗を悔いない」境地に達したのは、この特徴(顔や名前を覚えられないこと)を受け入れた結果でもあります:

アクセプタンス
「顔や名前を覚えるのが苦手」を「欠点」ではなく「自分の認知スタイル」として受け入れる。これはASD傾向の強み(例: 音やパターンへの集中力)を活かす姿勢と一致。

価値に基づく行動
あなたの目標「感情言語化をゆっくり進める」「丸ごと愛する」を伝える際、顔や名前の記憶に頼らず、誠実さや明確さ(「言葉を言葉通りに受け取る」)で関わるのは、ACTの成果を活かした素晴らしいアプローチ。



ワークブック「ACTをはじめる」の前に「よくわかるACT」を読む。
冒頭の言葉から私は救われる思いだ。

ACTは、このモデルの中心的なメッセージのひとつ─自分のコントロールが及ばないものを受け容れ(acceptance)、人生を豊かにする行動をとることを自己決定する (commitment) ─から名づけられた。

「自分のコントロールが及ばないものを受け容れ」手放そうとしてもできなかった元クライアントへの強い愛着。気がつけば私の側に、中にいた─これを手放すことを止め、受け容れた。
はASD傾向の私にぴったりだった。

人生を豊かにする行動をとることを自己決定する

自己決定。誰かに決めてもらうのではなく自分で決めていいのだ。自分で決めることで得られる安心感、充足感。

自分自身になれ。他の人には他の人がなっている

ACTを実践するにも自分のやり方に合わせて自由に取り入れ、変化させ、作り直して構わない、というのだ。これは今までにも私が自分のレシピと名付けて行ってきたものと同じ。

ACTの実践における望ましい結果とは、価値に導かれたマインドフルな生き方であり、症状の緩和ではない

カウンセリング、認知行動療法などで認知を変える、親からもらった認知の歪みを捨てる、価値観を捨てる、ということをやってきた。そしたら私は空っぽになった。新しく「師」を求めた。
この虚無感はASD傾向の私にはなかなかの試練だった。これがムダなことだったとは言わないが、次のステップとしてACTに出会ったことは幸いだった。

読み始めたばかりでこんなに癒されている。





パーソナリティ障害は精神障害だと、ICD-11、DSM-5などの国際診断基準では明確にされていると、私は今頃知ってショックを受けている。Grokによる情報だ。

私がカウンセリングという世界に足を踏み入れた頃(20年ほど前)は、この国のこの業界では、モヤッとした扱いだった。精神障害ではなく性格によるもの、みたいな扱い。統合失調症、鬱は精神障害、パーソナリティ障害は精神障害ではない、という認識。ネットで探してもこの言葉は見なかった。
いや、本当は精神障害と承知していたが、診断の難しさという理由で「見ないふり」をしていたのかも。
スティグマ(社会的な差別)が強かったから、ともいわれているようだ。

当時はパーソナリティ障害が先天的なものなのか後天的なのか、調べても出てこなかった。現在では「先天的、後天的その両方が考えられる精神障害」と明確。

明確な判断を求めるASD傾向には、このモヤッとした曖昧さがどうしょうもなかった。はっきり言ってくれれば諦めもついたし、この障害を何とか克服しようとジタバタすることもなかっただろうに。