川俣町の住人の様子  | あぶぐまの里にっき

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阿武隈の地に移り、昔ながらの農とくらし、技の継承を目指していたが、原発事故で自然・社会環境、自分の心も全てが変貌。

すぐ隣の飯舘村、また町内の山木屋地区が計画的避難区域に指定されています。小島地区をはじめ、この範囲に指定されていないところではふつうのくらしができるかと言ったら、そうではありません。一見、田畑も行い今までどおり暮らしているように見える人も、いざ対面してみると、非常に不安に思っている人がけっこういます。また、楽観的な人もいて、半々くらいでしょうか。

生まれてこのかた一言も使わなかったであろう「セシウム」だの「シーベルト」だのという言葉を、じいさまばあさまも毎日話しています。しかし、放射線に関係する認知の度合いはさまざまで、他人に説明する割には「風が吹いても放射線の数値が下がらないのが不思議だ」と言っているレベルの人もいます。

タケノコや山菜、茎立ちなど地元の野菜を食べないようにしている人もいますが、普通に食べている人もいます。もう年で自分はどうなってもいいと納得している人もいます。よそのお宅に訪問すると、山菜など振舞われることもあります。いずれにしても多くが農を手がけ、山菜の豊富なこの地で、地元の農産品を食べないというのは心情的にも物理的にも難しいような気がします。
私が会う人の中では、「自分は山菜も食べるんだ!」と宣言する人は、放射線を浴びるとかえって健康だともいう人が多いです。実際にそういう学者も存在しますが、少なくとも私は納得していません。少なくとも身体の近辺から届く放射線を浴びる外部被爆と、食べ物や呼吸などから体内に放射性物質を取り込み、体内から放射線を浴びる内部被爆とではリスクの差が大きすぎです。


われわれ無農薬の自然農に取り組んできた仲間の多くは農作業は行っていませんが、地元住人のほとんどは作付けしています。中にか自家用の稲作をやめた農家もいます。今まで出荷してきて今年もたくさん作付けしてきたかたは、出荷制限で出せずに後の補償をあてに記録だけはとっています。出荷制限になるか、風評被害で売れないかわからない。本当に補償されるのもわからない・・・。そう思いながらも種をまき苗を植えている時期です。


私は石川町に移ることに決めました。ここに住み続けている人にそのことを伝えること自体、とてもためらわれることなのですが、いざ話すと、「そうだね、若い人は動いたほうがいいかもね。どこへ行っても気をつけて」などと声をかけてくれます。また、田畑を囲ってあったトタンや集めておいた薪などどうするか相談すると、うちであずかるよと言ってくれたり、改めて、心優しい人に囲まれていたことに気がつき、この非常にすばらしい山や田畑、水の環境のことをとっても、ここを去るのはもったいないし悲しいと思うのでした。