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米沢まで移動。

戦国の杜 祭事コーナーがデパートの1階で開催している。

玄関の一番目立つ場所に、『前田慶次』が!

傾奇者で有名!パチンコでも有名?

ちょっと紹介!

父は織田信長の家臣滝川一益の甥 益氏であり、慶次はその庶子であった。母が前田利家の兄の利久と結婚したので養子となり義父と共に織田信長に仕えていた。尾張荒子城城主の長子である養父利久は跡を継いで荒子城の城主となった。そして慶次は利久の嗣子として荒子城の後継となるはずであった。しかし利久は信長によって家督を利家に譲るように命じられ、利久・慶次親子は放逐されるのである。
 信長が明智光秀の謀叛によって倒され(本能寺の変)、代わりに羽柴秀吉が天下を治めると、利久・慶次親子は利家より七千石の地を与えられいったん前田家に戻る。
 しかし義父利久が永眠し、その頃から慶次の傾き心が出てきたのであろう。慶次は前田家出奔という前代未聞の事件を起こす。慶次は利家を茶の席に呼び、その際に寒い日の何よりの御馳走「風呂」を勧めたのである。しかし風呂はなんと水風呂! 利家は怒り慶次郎を捕まえようとするが、既に馬に乗って逃げ去り前田家を出奔する。
 その後の慶次は京都に仮の住居を求めた。この時に貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りしたと言われている。そこで文武の道に己を凌ぐ人物として直江山城守兼続に接して交わりを深め生涯の友として認め、また謙信以来の武と信義を誇る上杉景勝を主君として仰いだのである。上杉家では一千石で召し抱えられ、組外御扶持方という自由な立場にあったという。慶次の仕官にあたっての条件は「録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい。」というものだったと伝えれられている。
 その後米沢にて、堂森山北東のほとりに庵(無苦庵)を結んで、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。無苦庵で記述されたのが「無苦庵記」で「生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている。
 慶次の没年月日には諸説ある。多くの史料では慶長十七年(1612年)六月四日に亡くなったとし、その亡骸は堂森善光寺又は北寺町の一花院(現在は廃寺)に葬られたとされている。

 慶次は「かぶき者」としても多くの逸話が残されているが公家や文人とも交わって和漢古今の書を親しみ、源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられ、連歌、茶道を学び、武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じ多くの戦場で大活躍したと伝えられている。

前田慶次の生き方は爽やかで痛快であった。自由と風流を愛した男それが前田慶次である。

米沢観光物産協会ホームページより

てなことで、前田慶次の顔は、ケンシロウでした・・・。