しまブログ
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妖精みたいな蛾

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「オオミズアオ」だったかな?

久しぶりで出会った、残念ながら死んでたけど。

 前は良く門灯の有る壁に居たんだが・・・

触りたくは無いが、透き通った薄い緑色のたいへん美しい妖精の様な「」なんだ。

虫が苦手な方は此下は見ないでね、これを書かないとコンプライアンス的に駄目なのかな?


 




#衣替えのタイミング

衣替えのタイミング

  かめかべのぼる。

 早口言葉みたいですが、後の動画をみていただければ。

 衣替えとゆうか、亀の水槽の掃除をしました。真夏の間にも掃除はしたんですが、ヤッパリ苔マミレです。

掃除の様子を動画にしていたのですが、ガサガサとゆう音に振り向くと、「亀壁登る。」を見ました。


 何年か前に大雨の次の日庭に訪れた亀です、左後ろ足首が千切れてないので、家で保護することにしました、種類は不明ですが赤耳亀ではありません。
 発泡スチロールのケースを平地に置いて亀の四肢が揃っていれば、脱出してたかも・・・。



 

 

 

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去る11月2日父が亡くなりました。従軍記は小説家になろうに書きました。

父の自分史

  齢(よわい)既に九十二歳、男性の平均寿命をはるかに超え、いつくたばってもおかしくない今日この頃となった。         


 今まで生きてこれたのは悪運と天命のおかげと感謝している。 

 そこで大した人生ではなかったが、生い立ちから今までの生きざまと、その時々の世相をおりこんで記録しておきたい。

 詳しい部分もあればそっけない部分もあるが、それも亦佳きかなと自画自賛しながら綴る。 

  第一章 出生~幼年期  

 大正十四年(一九二五年)八月七日、神戸市兵庫区小河通一丁目一番地の一で出生。 

 その時々の世相をおりこんで記録しておきたい。詳しい部分もあればそっけない部分もあるが、それも亦佳きかなと自画自賛しながら綴る。

  また、後生の人達は日本の旧軍隊のことを知らないと思うので、私の貴重な体験であった従軍の模様を付記として記録した。 乞うご笑覧の程を。

  第一章 出生~幼年期  

 大正十四年(一九二五年)八月七日、神戸市兵庫区小河通一丁目一番地の一で出生。 

 父三十九歳、母三十二歳の時である。  翌年七月、一歳の誕生前に乳児は「はしか」にかかり、高熱にうなされる乳児をみかねた父が、「『はしか』は冷やすのは禁物」との鉄則を破り冷やしたためこじらせて、医者に見放されるほど悪化させ、「今夜でおしまい」と宣告された。その夜、奇跡的に持ち直し、翌朝医者を驚かせた。(と、後年両親から聞かされた)

 (これが我が人生における第一回目の命拾いである。 )

 二歳・三歳の頃のことは勿論自分の記憶にはないが、当時は道路はほとんど舗装されておらず、自動車の通行もなく、自動車も少なくなかったので、自由に屋外で遊んでいたと思う。   四歳(昭和四年)  この年の十月、ニューヨーク株式大暴落に端を発した世界恐慌が始まり、不景気の嵐が吹きまくった。父は川崎造船所(現川崎重工業)の熟練工(船のボイラー造り。ボルトをかしめる音で後年難聴になった)であったがリストラされた。

 これがこの後六年間にわたる窮乏と流転の始まりだった。  父は先ず岡山県玉市の造船所へ務めたが、この時の住居(借家)が非常に土間が広く、屋内にブランコを作ってもらって遊んだ記憶がうっすらと残っている。玉市には一年間滞在した。   五歳(昭和五年)

 未曽有の失業時代 

 父が玉造船所を退めて神戸市へ帰り、兄が経営する青果店の指導で果物店を開業した。 

 私は兵庫区水木通り五丁目の、生田神社御旅所(分社)横にある「兵庫幼稚園」へしばらく通った。父は店での商売の他に行商もしたが不景気のさなか、いずれもうまくいかず一年余りで廃業し、親戚を頼って小倉市へ移った。


  第二章 少年期 

 昭和六年九月 満州事変勃発 昭和七年三月 満州国建国宣言   六歳~七歳(昭和六年~七年)  小学校入学。入学予定の学校が入学目前に焼失した為、小倉城公園内の臨時校舎へ入学。

  畳敷きに平机、今にして思えば昔の寺子屋そっくり。

友達とふざけて部屋から部屋へと走り廻って何回も先生に叱られたらしい。

  一年間で門司市へ移った。   八歳(昭和八年、小学二年生) 門司市内には母方の親戚が何件もあり、中には市内の有力者もいた。

 母に連れられて親戚をよく行き来したが、今にして思えば母は金策に走り廻っていたようだ。

 学校は山の中腹にあり、当時としては珍しい女性の先生であった。毎年弁当を持参したが、お菜は塩鮭、金時豆、玉子焼で一年中少しも変わらなかった。        

 一年で大阪へ移った。  

 九歳(昭和九年、小学三年生)  父が大坂市内の造船所へ勤めた。転入した南恩加島小学校は古い木造校舎(当時はほとんどの学校が木造だった)

 昭和九年九月二十一日の室戸台風上陸による高潮で校舎の一階天井の近くまで水が流入し、あと僅かで校舎が倒壊するところだった。

 隣の北恩加島小学校は倒壊し、生徒に多数の犠牲者が出た。

  当時は学校から帰宅後家で勉強した記憶は全くなく、毎日屋外で遊んでいた。煉瓦敷の路地を探してローラースケートをしたり(舗装道路がほとんどなかった)廃工場へ探検に行ったり、紙芝居は毎日只見でよく叱られた。

  一年で神戸へ移った。

   十歳~十二歳(昭和十年~十二年、小学四年生~六年生)  やっと父が川崎造船所に復職し、普段の生活に戻った。

 転入した市立大開小学校は当時では珍しい鉄筋コンクリート四階建てのマンモス校(児童数三千人)、ここで始めて落ちついて友達ができた。

 この頃から跳び箱や鉄棒のように道具を使う体操が得意になった。 

 住居は路地で両側に長屋が建ち、建物は通り庭で裏に小さな仙裁と井戸(隣家と共用)があり、表の水道は四軒の共用だった。

 各戸に黒塗りの蓋付きゴミ箱を備えていた。

空き家もちらほらあった。

子供がたくさん(近所だけで数十人。一軒平均四~五人はいた。私は一人子で珍しがられた)

 遊びはバイゴマ争い、ベッタン、ラムネ玉(どれも勝った者が相手のものを取り上げる)、模型飛行機作り(私はこれに熱中し小学校の校庭でよく飛ばした)  子供の服装は冬でも半ズボンに黒色の長靴下。

時々雪が降り寒かった。

 家の中は丸い大火鉢に炭が入っているが、部屋は寒かった。  犬を飼っていたが、つないでなく外を自由に走り廻っていた。

 朝夕の食事をもらう時と寝るときの帰ってくるだけ。

 犬小屋はなく、通り庭が住家。

  学校の昼休みにはいつも走って帰り、家で昼食を食べた。

弁当を持ってくる者は少なくなかった。

 大開通りのそばに巡査の小屋があり、制服にサーベルを下げた巡査がいつも立っていた。

子供心に怖かったのを覚えている。五年生になると時々遅刻したが、通用門が閉まるので校舎の裏側の出入り口からソット入いり、朝礼が終って教室へ入る子と合流した。このあたりの記憶は鮮明で今でも時々夢に見る。

  受持ちの担任は白井先生で、恐かったが、おかげで進学できたと感謝している。

 6年生になると進学組は補習授業をしてくれた。

  道路はメインストリートは舗装が進んだが、まだ自動車は珍しかった。

 日常の物資の運搬には馬力(大八車を馬に曳かせる)が使われていた。

夕方になると仕事を終えた馬力が空(から)になった車を曳いて通るのに、後ろから飛び乗って遊びよく叱られた。

馬は歩きながらよく糞をするが、馬方は放ったからし。

  六年生になると自転車を買ってもらい、得意になって走り廻った。友達と夏の夜に築島の突堤に穴子を釣りに行き、水上警察のランチに追われて逃げ、自転車を没収され、翌日父に謝りに行ってもらい自転車をとり戻した。

  第三章 青年期 

 昭和十四年九月

 第二次世界大戦勃発 

 十三歳(昭和十三年)~十七歳(昭和十七年)神戸市立第一神港商業学校へ入学 。

 学校の校舎は大分部は古い木造で、建物は太いつっかい柱支えられていた。

一棟だけある鉄筋コンクリートの建物は一年生だけが入った。当時は軍国教育で現役の配属将校と退役将校の二人が教育に当たっていた。

生徒は登下校時には革の編上靴にゲートルを巻き、まちで上級生に会うと歩きながら敬礼、先生や職員に会うと停止して敬礼する。

うっかり見過ごすと後で風紀室へ呼ばれしぼられる。

登下校時の校門には上級生の歩哨が門番をしている。

電車通学者は東は湊川公園、西は長田で下車して歩く。飲食店や映画館への出入りは父兄同伴以外は禁止、しかし私は一度新開地の劇場へ一人で「笠置シズ子」の実演を見に行く冒険をした。

幸い誰にも見つからずにすんだ。

 軍事教練は一・二年生は徒手教練、三年生以上は執銃教練。校内の兵器庫には数百万挺の小銃が格納されていた。

当時は相撲部が強かったことから応援の練習でよくしぼられた。

  学校が商業学校だったので、珠算、簿記商用文(候文)は勿論、英語にも力を入れており、リーディング、ペン習字、文法、英会話、(外国人教師がいた。

 昭和十六年以後は日本教師が担当した)等かなりの時間を当てていた。武道は剣道・柔道の選択制で私は柔道を選び、練習は二組が合同で行うので、ここで石湯君と知り合った。

二月の寒憩古は辛かった。暗いうちに家を出、道場で柔道着に着替えるのだが、汗で湿った道着が凍っていて冷たい。

  校庭の南斜面に桜がたくさんあり、春は毛虫がひどかったが、生物の時間に先生の質問に答えられたかったりすると「ハイ、今日の毛虫取り」を命ぜられ、何回も毛虫とりをした。  一年生の六月に阪神大水害が発生。市内のあちこちで大きな被害があった。夏休みはこれの復休作業の勤労奉仕でつぶれた。水泳訓練もなくなった。水泳では翌年五キロの遠泳に合格した。

  3年生になると射撃部に入った。(一・二年生は入れない)五月に猩紅熱にかかり、隔高う病院へ収容された。(当時は法定伝染病であった)連日四十度を超す高熱が続き、父母の昼夜を分たぬ看護(頭を氷で冷やす)と、自分の心臓が丈夫だったおかげで死地を脱した。

(特効薬はなし)約一か月で退院。当時はこの病気で入院した者の致死率が高く、退院できるものはマシと言われた。

(第二回の命拾い)

  射撃部の部活では厳しく上下関係を仕込まれ、雑用や銃の手入れ一手引き受け係。やっと射撃の練習に入いると先輩から、「引き鉄(がね)は闇夜に霜の降る如く、絞るのだ」と教えられた。毎日放課後校庭の隅で地面に伏せて的を狙う練習をしていると、たまに先輩が「パンを買って来い」と命じる。金を預かって金網の堀をのり越えて近くのパン屋へ走る。

この年の新入生は足高、橘、藤岡、岩本、島田、上田に私と七人。

  年に一回実弾射撃訓練がある。神鉄沿線箕谷の射撃場へ行くのに、大きな弾薬箱を二人でかつぐのだが、中身より箱のほうが重い。

  現地に着くと新人は先ず二〇〇メートル前方の看的壕へ連れていかれ、射手の撃った弾の弾痕の位置と点数の確認、表示の仕方、的の補修(紙を貼り墨を塗る)、的場との連絡などの説明をうける。

帰る前にやっと一回(五発)撃たせてもらう。

弾は全く当たらない。

  それでも一年後後輩が入部してきた。

(赤坂、柳井、小菅、大川等)四年生の実弾射撃ではだいぶ命中するようになり、射撃大会にも出場し、姫路や大阪へも出かけた。

  三年生の十二月に大東亜戦争(戦後、太平洋戦争と改称)に突入した。

  軍隊では私は小銃歩兵ではなかったので、小銃射撃は役に立たなかったが(岩本は実戦で非常に役に立った、とのこと)迫撃砲の照準手として役に立ったと思う。

  四年生になると秋に青野が原(戦車隊の演習場があった)へ三日~四日間、銃を担いで出かけ、軍事演習をする。

敞舎(兵舎の簡単なもの)で寝食するが、消灯後に寝ずに騒いで、配属将校に叱られ十数人が長時間外に立たされた。

 五年生になると軍隊の秋期演習に参加した。空砲(音がするだけの弾)をもらい、派手に撃つ。

夜間行動中、真っ暗闇で溝に落ちた苦い記憶がある。

  悲喜こもごも、戦局が逼迫し物資不足で苦しかったが、どちらかというと能天気で楽しかった四年九カ月の学校生活が終った。(繰り上げ卆業で五年生の十二月に卆業した)

   昭和十七年四月 神戸初空襲の米軍飛行機を校庭で目撃した。 

  就職活動(昭和一七年九月~十二月) 

 五年生の九月、飯田産業(株)の入社試験に合格。

しかし、十一月に入って採用取り消し通知が来、学校が抗議し掛け合ってくれたがラチがあかず、結局十二月に行われた三菱電機(株)の追加採用試験を受け合格した。

  飯田産業では当時南洋群島で事業経営をしており、新入社員は全員ここの要員とされていたので、採用されていたらどんな運命が待っていたか、微妙なところであった。

  会社員生活(昭和十八年一月~) 

 一月七日三菱電機(株)神戸製作所へ入社。 

 一月二月の寒い時期に朝、暗い内から出勤し、基本実習(ハンマー打ち、やすりかけ)。

 二週間後から工場内各職場を順次体験実習する(約二カ月)。

 成績の良い者から希望する職場へ配属される。

 私はあまり真面目に実習しなかったので資材部購買課鋼鉄係へ配属され、特殊鋼を担当することになった。

(後日、軍隊で非常にお世話になった林崎さんは、同課非鉄係におられた。ここで林崎さんと知り合うという非常に良い運命に出会った)河瀬先輩の指導を受けたが、口頭で教えてもらうことは一度もなく、すべて自分で覚えろ式だった。

 特殊鋼の成分や検査値を必死で覚えた。

 取引先への文章は候文で、一応学校で習ってはいたものの実務には大して役に立たず、書き直しの連続であった。

 三~四カ月もすると大阪の鉄鋼会社へ出張し、半年もすると東京やその周辺まで一人で行くようになった。

  出張は先輩が「明日から何社と何社へ行って納期の督促をしてきてくれ」と命じるが、容量は何も指示してくれない。

自分で考えてやるしかない状況であった。

出張の往復は夜行列車で、東京駅へ着くと出口に両替所があり、先ず十円紙幣を小銭にくずしてもらう。

  出張先ではできるだけ年かさに見えるように振る舞うのに苦労した。

先方は四十代・五十代、こちらは十八歳だが、鋼材の確保に夢中なので、年齢差を気にしてはいられなかった。

鋼材の配給切符は陸海軍の監督官がいくらでも発給してくれるが、現物の保証はない(極度の品不足状態)宿泊は旅館を使うが館内では風呂を沸かせない為銭湯を利用。空襲を警戒して灯火管制で街が暗く、一人で出かけて迷子になったので宿の女中さんに送迎してもらう始末だった。

  会社内での昼食は食堂で、一階は現場作業者用で米飯、事務所職員は二階でうどんだった。  

 残業をすると一回に六十銭支給されるが(時間数に関係なし)、うどんが食べられるので、しょっちゅう残業している石湯君にタイムカード打ちを頼み、残業と届けてうどんを食べ、そのまま帰った。(翌朝必ずタイムカードを調べにくる)  いっしょに入社した泥君と脇本君(同窓生)が病気で亡くなった。(泥君は庶務課で、私は遅刻した時、タイムカードを修正してもらうのをよく頼みに行った)

  昭和十八年の春頃から空襲警報が出るようになり、夜間に発令されると家から会社まで走っていくことが何回もあった。  昭和十八年九月、徴兵検査を受け第一乙種合格。 

 昭和十九年八月下旬、何回目かの東京方面出張から帰社すると、課長から「入営通知が来ているからすぐ帰宅せよ」と指示があった。 

 入営日は九月五日、えらい早いなぁと思った(十九歳と二十九日)   従軍(付記に後述)昭和十九年九月~   復員、復職(昭和二十一年六月~) 

 通勤は市電だがまだ木炭バスが見受けられた。出社すると二カ月間の現場実習の後、仮配属は庶務課調査係、配属決定は会計課購入先係、すぐに出納係へ移った。

 この係では毎日銀行廻りをするのに小型の電気自動車を使用していた。

 当時は貯金の封鎖や新円切り替えが実施され、係員は多忙で時には徹夜をすることもあった。

 冬は事務所の中で大きな石炭ストーブを使うが、終業時には消すので夜は非常に寒かった。  

 昭和二十七年秋、勤労課へ転勤。翌年勤労第二課が創設され、そこへ編入。

 

 同課福祉係で同僚であった岡崎ふく枝と昭和二十九年三月に結婚した。昭和三十年三月長男雄一誕生。同三十二年二月次男俊二誕生。同三十九年母七十一歳で逝去。同四十一年鈴蘭台へ転居。同四十五年父八十四歳で逝去。

  私は昭和二十七年春頃から肺結核の治療を続けていたが病状が好転しない為、昭和三十年七月に須磨浦病(今はない)へ入院し、約四カ月で完治退院した。当時の治療薬はパス・ストレプトマイシン・ヒドラジッドの三種。病院の治療費方針は大気(一年中窓は開放)・安静・栄養であった。(当時須磨浦公園周辺は非常に空気が良かった)  昭和三十三年一月一日付で同課福祉係長に任命された。  昭和四十年九月、台風による高潮が工場を襲い、工場・事務所とも多大の損害を蒙った。  翌四十一年二月、庶務課厚生係長兼給食係長として転勤。その年の九月再び台風による高潮が遅い(防潮堤を設けていたが効果なし)給食工場では昼食製造の作業中であったが、胸まで浸かる水量が押し寄せ、必死にもがいて脱出した。この後の復旧作業と休業中の給食パンの手配が大変だった。

  昭和四十六年、関連会社「菱電エンジニアリング(株)」へ総務課長として出向した。当時の出向者の年齢としては数年早かった。

  同社は技術屋ばかりで、約六十名の社員中事務屋は私以下四名のみ。(内二名は女子、男子一名は経理担当の老人)労働組合があり、この組合に対して親会社の設計部門(当社員はここの技術者の下で働く)の左翼勢力が干渉して一部の社員間に左翼思想が浸透(とう)し、春闘時期はいつも団体交渉とストライキで、親会社の勤労課長は苦い顔をして干渉がましいことを言って寄こしたが、こちらは孤軍奮闘、必死に対処しているので、「実践の苦労も知らないで、何を偉そうに」と聞き流した。会社は東京本社(管理機横のみ、ほとんどが技術屋さんで事務屋は総務部長のみ)名古屋、神戸、長崎とあるが、賃金交渉は神戸が天王山でで神戸の責任は重かった。

  総務課長は労働対応だけでなく、庶務・人事・経理・業務折衝(対親会社、対同業者)と多岐に亘る職務があり非常に多忙であった。

  途中、昭和四十八年に重電機器保守業務の「技術協力課」を受け入れた。これは後日(昭和五十二年七月)関西三菱電機プラントサービス(株)として分离独立することになる。 

 それでも六年間の勤務の間に社員の間で良識派が約束して盛り返し、左派勢力もかなり軟化・縮少していた。  昭和五十二年五月「菱電不動産(株)神戸支店」へ転勤。この会社には労組がなく、現業部門の向上給食従事者以外は事務屋だった。着任して間もなく事務機械化(オフィスコンピュータ使用)に取り組んだ。私自身本社での講習(一週間)に参加し、基礎講座・自習を体験し、帰所して各部門の女子事務員に教えた。約半年で賃金計算、会計処理他全般の事務機械化を完了した。その他、自動車運転免許・宅地建物取引主任者免許を取得して不動産(マンション、戸建)の販売にも参画した。  親会社がサイドワークを関連会社に委託する方針を拡大するに伴い、受託業務が急速に拡大し、これに伴い従業員も増加した。なかでも独身寮(関連会社を含む)七寮の運営では女子勤務員(高卆)確保に苦労した。女子にとって住込みを嫌う風潮があるのと変則勤務が壁となり、求人活動に学校を廻っても、どこも良い顔をしない状況であった。他に中央研修センター(宿泊制)運営。ここでは食事に力を入れ好評を得たが、受講者のマナーが悪く、小さなトラブルが絶えなかった。親会社の受付業務、応接室の接待業務、宿泊施設(原子力発電所の基地として福井県若狭和田町)を運営。  昭和五十四年には香川県丸亀市に親会社の丸亀製作所が設立されるに伴い、給食工場へ指導者を送ることになり、その人選に苦慮した。

  その後、約十年を経、現役十四年、嘱託二年の長きに亘り、雀友に恵まれ、健康と悪運を友として大過なく勤め上げることができ平成四年一月に退職した。

 時に六十七歳であった。 


  隠居時代(平成四年~)  退職後の四月、兵庫県立いなみ野学園に入学した。同期生には会社OBの今西君や河野女史がいた。

 午前中は全学科合同の講義。午後の学科は園芸学科を選んだ。クラブは囲碁クラブ。(毎週水曜日・土曜日)九級からスタートし、卆業時には四級になっていた。

 四年間鈴蘭台からマイカーで通学した。

  平成七年一月、阪神淡路大震災が発生し、その年の五月の卆業旅行が秋に延期された。

  震災後、被災した家を売却し、三田市に二世帯住宅を建て、長男一家と生活する計画をし、その間約十カ月、次男の家に寄宿させてもらい、お世話になった。(それから二十年後、本格的に二世帯同居の生活をするとは夢にも思わなかった。)   

 平成八年九月から三田市に居住。翌年冬ごろ有治会の囲碁クラブ、自治会長が訪れ「このグループで老人会を立ち上げてくれないか」と再三頼まれ、クラブの六十歳以上の者が数人発起人となり、平成十四年四月老人会を設立。私は副会長となり二年、次に会長を二年務めた。  この春孫が子犬をもらって来、コータと名付けて可愛がった  平成十一年五月私は胃の調子がおかしくなり、三田市民病院に受診したところ、胃切除手術が必要と診断され入院・手術。約一カ月で退院したが、その後十一年間、術後検査に通った。 

 平成十三年十二月に二世帯同居を解消することになり、土地建物の売却準備を進めた。ところが売却手続きが思いのほか難航し(売買が少ない時期であったことや、敷地が広く高額な事などが原因)友人からつなぎ資金を借りて対処し、やっと同年14年三月下旬に売却できた。  ちょうど老人会会長職満了と同時期であった。

   神戸市へ移転(平成十四年四月)  転居に際し、庭で犬が飼える家を希望した所、偶然一発で新築・二階建・かなり広い庭付きのアパートが見つかり、即契約した。(アパートとしては珍しい建て方)神戸電鉄の駅が近く、買い物の便が良く、医療施設が近くにあり、閑静で住み易かった。

 後年、近くのスーパーの敷地内で温泉の掘削に成功(有馬温泉と同じ泉質)し開店。私もよく利用した。

  自治会・老人会に入会し、グランドゴルフ同好会に加入、十数人の友人を得た。

  老夫婦の満ち足りた生活も寄る年波と将来展望を考えるとき、一抹の不安がよぎる。

 そこで自分たちが元気なうちに息子と同居するのが最善と考え、次男に相談したところ、即OKを得たのでホットした。

 準備を進め平成二十八年四月下旬、新居へ移転。

 姫路市民となる。 

 現在同居一年余だが大過なく経過している。私達二人は医者通いが日課のようなものだが、できるだけ息子たちに迷惑をかけぬよう身体に気をつけ、少しでも長く自力で動けるように努力しなければと思っている。世に云う「ピンピンコロリ」が希望するところである。

  補足だが家族の一員として同居する犬は、自由に動き廻れる庭と、可愛がってもらえる人数が増えたことで満足の様子である。

  了

 

 







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