『テス』
19世紀末、イギリスの小さな村マーロット。自堕落な行商人ジョン・ダービフィールドは道すがら、すれ違う牧師が自分の名前に「sir(卿)」を付けて呼ぶことに気がついた。今日で二回目。昨日もそうだった。
いったい何故だろう?二日目に思い切って牧師に尋ねてみたところ、牧師が言うには、ジョンは零落した名家ダーバヴィル家の末裔だというのだ。
なんと自分が!と驚き喜び、家に帰ってそのことを伝えると、妻も大喜び。
しがない庶民の子にしては美しすぎる娘・テスはそんな父親に取り合わないのだが・・・
家の困窮を救うべく母親にけしかけられて、よその村に邸宅を構えるダーバヴィル家に出向かされたテス。
そこには盲目の気難しい夫人と、放蕩息子のアレックスが住んでいた。
めでたく(?)屋敷で働き始めたが、このときからゆるやかにしかし確実に、テスの悲劇が始まる。
敬虔なクリスチャン、心の底から人を疑うことを知らない無垢な人間があれよあれよと悲劇の渦に巻き込まれてゆく展開はイギリス小説の十八番。
テスもちょっとは考えろよ!と思ってしまうのだが、彼女は良心と神に恥じない生き方をしているだけなので、それで悲劇の色合いがいっそう烈しくなる。
この悲劇の最たる発端である牧師もほんとにもう、あんなこと言わなきゃいいのにさ、と思うのだけど、この原作ではそんな「しなきゃいいのに」が実に満載なのである。
私のポランスキーデビューは、幸か不幸か彼の笑いのセンスが良くも悪くも爆発した『吸血鬼』('67)という作品で、シャロン・テートがひたすらおバカだけどもとっても可愛い役を演じている「考えようによっては」抱腹絶倒の作品なのだが、それでもけっこう気に入って、その次に『チャイナタウン』('74)を観た。
しかし「マーロウもの(レイモンド・カーヴァーのハードボイルド小説。日本では最近村上春樹が訳している)を強く意識した」とメイキングで語る通り、作品を観ている間じゅう私の頭の中には本家フィリップ・マーロウをロバート・ミッチャムが演じる『さらば愛しき女よ』 がぼんやり二重写しになって、結局「ミッチャムのほうがいいなあ」ということになってしまった。実際に製作されたのは『チャイナタウン』のほうが先なのだけれど。
この二つを比べるのも野暮と言うものだけど、そう思ってしまったのだから仕方がない。『チャイナタウン』のフェイ・ダナウェイはとても美しくて哀しいが、『さらば~』でしどけなくミッチャムを見据えたシャーロット・ランプリングはもっともっと、美しくて哀しいのだ。
それでポランスキー作品からは一時期離れていたのだけど、あるときハーディの『テス』を読んでそういえば、と思いこの作品を手にした。
それで、あー、こっちから観ればよかったのだと心底後悔した。ナスターシャ・キンスキーの透明感溢れる美しさ、その貌をいろどるイギリスの地方の瑞々しい緑、濁りは与えずに映像を重厚にする音楽、そして序盤から根底を流れ続けて最後に音もなく爆発する冷たい凶気。これはポランスキーじゃないとだめだ、と強く思った。
原作とは異なる部分もあるのだけど、原作の悲劇性をしっかり汲み上げ、かつ彼の真骨頂であるモダン・ホラーで上手く纏め上げた作品です。
極私的映画スケジュール・11月-1
坂口安吾も生誕100周年。そうか、溝口健二とヴィスコンティと安吾は同い年なのか。
最近のものでは『白痴』 ('99・手塚眞)『カンゾー先生』('98・今村昌平)、ちょっと昔のものでは『不連続殺人事件』('77・曽根中生)『桜の森の満開の下』('75・篠田正浩)など、坂口安吾の小説を映画化した作品が上映される。
いったい、安吾の文体はどうしてあんなに乾いていて気持ちいいのかとつくづく思う。
『戦争と一人の女』(『白痴』所収)で描かれる、空襲の翌朝の街、硝煙の匂い、視界に広がる色は薄いけれどどこか厚みのある空・・・、そしてその下を自転車で突っ走る一人の女の白い脛。完璧だと思う。
乾いていると同時に一抹の湿り気がどこかに隠されているのだけど、それは安吾の言うところの「巨大な愛情」≒諦念によっていつだって透明な膜に覆われて、時々目を醒ましたかと思うとまた深い眠りに陥ってしまう。
安吾の作品にもプルーストと同じようなコーマ、昏睡がある。
そういう文脈で考えれば手塚眞の『白痴』の終盤は、グダグダだの映画学校生の箱庭映画だの言われてもけっこう安吾作品の深いところを突いているのではないかとも思う―監督の趣味が爆発しすぎるきらいはあったけれども。
『不連続殺人事件』は原作も大好きな作品。映像作品のほうは観たことがないので、ぜひ観たい。
『白痴』は昨年以来それこそビデオで何度も何度も観たけれど、橋本麗香のこれが何故戦時中に!という素頓狂(でいてたまらなく魅力的)なタイ舞踊、空襲で街に降る炎をみてうっかり「キレーイ」と呟いてしまうあんじを改めてスクリーンで観てみたいとも思う。
ちくま文庫の安吾全集欲しいけど、置くところがない、全18巻って。
『リトル・ダンサー』
イングランド北部。第二次サッチャー政権による炭鉱閉鎖をめぐるストライキで男たちが神経を尖らせ、利害関係で町の人間関係もぎくしゃくしていた不穏な年―1984年。
酒とストライキに明け暮れる父や兄と暮らすビリーは、死んでしまった母親の代わりに家事をしたり、最近ボケ気味のおばあちゃんの面倒をみたりしながら学校に通っていた。
日曜にはボクシングを習っているが、試合には負けっ放しだしどうも向いてない。それよりなんだか、隣のスペースでやっているバレエが気になって・・・
ある日曜日、ついにビリーはボクシングではなくバレエのレッスンを始める。もちろん、父親には内緒。
水を得た魚のようにめきめき上達する彼に、講師のミセス・ウィルキンソンは提案する。
「ロイヤル・バレエスクールの試験を受けてみない?」
男がバレエ?とんでもない!そんな風潮の炭鉱町で自分のほんとうにやりたいことを見つけ、レッスンの間だけでなく日常が踊りで満ちているビリーを観ているとこちらも軽やかな気分になれてとても楽しい。踊る身体はそれだけで雄弁で美しいのだから。
『エトワール』で観たパリ・オペラ座のバレエ・ダンサーたち、『茶の味』で観た森山開次、そしてこの映画の少年ビリーと、さらに成人したビリーとして最後に出演するアダム・クーパー。皆激情も哀願も、虚無も逡巡も、細かなあるいは大胆な軌跡で余さずこちらにぶつけてくる。
オーディションでビリー・エリオットに選ばれたジェイミー・ベルの踊りは、赤い靴を履いてしまった少女のよう。考えるより先に身体が動く、驚異的なステップが次から次へ繰り出される。特に中盤のウィルキンソンとのダンスでは、なにか未知のものを観たような気にさえなってしまう。こんなふうに身体って動くものだったの!?というように。
マドンナの曲「VOGUE」のなかに「Fred Astaire,dance on air」という歌詞があったけれど、少年ビリーは意思を持った空気と一緒に踊っているという感じで、彼の身体だけでなく彼の周りの視えない何かも同じようにとんだりはねたりしているような錯覚に陥るのだ。
踊ることが人に何を伝えるか、今彼方へ向けてのばしたその腕が何を示すのか頭で厳密にはまだ知らなくても、身体のほうではとうに知っている、そのことのすさまじさ。
演出も抑制が利いていて、炭鉱労働者の苦悩という扱い始めればどこまでも重くなるサブテーマもほどほどのいい踏み込み具合。
マセた近所の女の子、女装癖の美貌の親友、労働者のガンコ親父にダメな兄…、描かれる人物はそれなりにありがちだけど、嫌な印象がないのはやりすぎも不足もない実直さがあるから。
コミカルな部分はまだはじけきれてなかったり劇的な瞬間を劇的に出来なかった(「敢えて」という抑制ではなく)弱さは残るものの、箇所箇所に流れるT.REXが懐かしかったり、とても気持ちよく楽しめる映画です。
『リリー・マルレーン』
'81/西独 原作:ララ・アンデルセン 監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 出演:ハンナ・シグラ ジャンカルロ・ジャンニーニ メル・ファーラー カール・ハインツ・フォン・ハッセル
実話を基にした映画です。
1938年。ナチスが本格的に欧州を暗雲で覆った頃、ユダヤ人の恋人ロバート(ジャンカルロ・ジャンニーニ)とともにいた二流歌手のビリー(ハンナ・シグラ)は政情とロバートの父であるダヴィッド(メル・ファーラー)の陰謀により、ミュンヘンを出たロバートと合流できなくなってしまう。
スイスとドイツ、国境越しに引き裂かれたビリーはひとりミュンヘンに残り、生活の道を探さねばならない。途方に暮れながら自分にできる事は歌だけ、とかつて彼女を高く評価したナチスの将校ヘンケル(カール・ハインツ・フォン・ハッセル)の紹介で酒場の歌手の職を得た。
歌手が生業のビリーだが、決して歌が上手いわけではない。初めてのステージも嘲笑と野次に満ちたものだったが、ヘンケルだけは一人彼女の可能性を見抜いていた―大いなるナチスの広報として。 『リリー・マルレーン』を歌うことで一躍国民的歌手になった彼女はやがて豪奢な暮らしをするようになり、ロバートをただひたすら待つ生活からとても遠い場所に行ってしまうのだが・・・。
大いなるメロドラマ。時代がそうであっても戦争映画として受け取るのがそもそも野暮なので、当の戦争に対しては緻密な描写に欠ける、とかあれこれ言っても始まらない。
それは確かにこの映画を少しだけ残念なものにしているけれど、映画全体を覆う淡い光、控えめな哀しさ、何より彼女が歌う『リリー・マルレーン』の響きの前ではそういう批判の一切が無効なのである。
とても甘いのだ。でも、嫌な甘さじゃない。ところどころに麝香の香りのする甘さ。
それはこの映画に登場する人々の誰一人として幸福ではないからだとはいえ、この雰囲気には観るたびに絡めとられてしまう。
『マリア・ブラウンの結婚』('79)でもそうだけど、彼の映画に登場する人々の帽子の傾き具合はどうにも宿命的。あやうい均衡のなかで人の貌に陰を落として、官能を炙り出しているのがたまらない。
無垢そうなハンナ・シグラの眼とまるで分断されたような印象を受ける赤い口紅は、人が考える幸福さからぞっとする不幸さを引きずり出して観る者に示すけれど、それでも過剰に陰惨でないのはひとえにファスビンダーのいい意味で「甘い」撮り方のお陰かもしれない。まあ、いろんな意味で甘いのだが・・・
この映画を緩く、しかしたしかに貫く『リリー・マルレーン』は必聴。少なくとも聴いたその日は忘れられないことでしょう。
さきに述べた『マリア・ブラウンの結婚』と併せてどうぞ。
極私的映画すけじゅうる(10月)
先月の溝口健二に続いて、今度は生誕100周年をむかえるヴィスコンティの映画祭。
彼の代表作『山猫』『イノセント』『ルートヴィヒ』を、一ヶ月にわたり上映する。
前売り券は\1,300、当日は\1,500。
夜の部が遅くても19:00~なので、時間に間に合わず観に行けなさそう。
個人的には21時くらいからゆったり、『家族の情景』なんかを観たかった気もする。
■美の改革者武智鉄二全集 谷崎×エロス×アヴァンギャルド@シアター・イメージフォーラム(渋谷)(10月公開予定)
この人、今日の今日までまったく知らなかったのですが、わあ、すごく好みかも・・・。
エロスがわきあがってしたたっていそうです。
谷崎潤一郎の戯曲『白日夢』や自身が脚色した『源氏物語』など、「谷崎のこまった弟子?」であり「早すぎた天才?」(いずれも公式サイトより)と言われた彼の作品を上映。
これは気になる。とても気になる。
■明日へのチケット@シネカノン(銀座)(10/28~)
エノマン・オルミ(『木靴の樹』)、アッバス・キアロスタミ(『桜桃の味』)、ケン・ローチ(『麦の穂をゆらす風』)らパルム・ドール受賞者たちがアイディアを出し合って作られた、オムニバスではない『共同長編』。
同じ舞台、同じ設定のもとに、乗車券をめぐって起こる様々なできごと、人間を描く。
出会いってストロボのようなものよね。閃光よね。まぶしいよね。
邂逅って言葉なんか、ちょっと神がかってるし。
他には今敏の新作『パプリカ』、フレディ・マーキュリーのドキュメンタリー、バタリアンなど。
私『バタリアン』って、聞いただけで笑ってしまう。作品がどうのとかでなく、純粋にその響きが笑いを誘うのです
『アリス』
スタイリッシュで優しいファンタジーです。
アリス(ミア・ファロー)はエリートの夫ダグ(ウィリアム・ハート)と子供たちに囲まれて何不自由なく暮らすハイソな主婦。
毎日いそいそ美容院に行ったり買い物したり、ゴシップにも敏感でいたり。上流社会における「よき妻」像の維持に余念がない。
そんな彼女だが、最近背中の痛みがひどいのが悩み。レントゲンも撮ったし、指圧も試したのに一向に治らない。おまけに貞淑が誇りだったはずなのに、夫以外にちょっと気になる人がいて・・・。
思い切って友人にこの淡い気持ちと背中の痛みを相談すると、最近ハーブ療法で話題の名医ドクター・ヤンを紹介された。
この名前、朝からもう何度も聞かされているけど、本当に名医なの?
半信半疑でチャイナタウンへ出向いたアリスに「問題なのは背中じゃなくて心」とカタコト英語で断言するヤン。
彼女に特製のハーブを渡すが、この薬、飲むとやたら大胆になったり、透明人間になれたり、果ては昔の恋人の幽霊に会えたりで・・・。
とにかく脚本の巧さに恐れ入る一作。
無駄がなくてテンポが良くて。笑えて、皮肉で、でも気持ちいい。
世間知らずの主婦が生活の空虚さを押し殺していた自分に気がついて、新しい人生を夢見てみる。できれば、新しい恋も。
でも人生はそんなに甘くなくて、恋も仕事もこじれたり、もつれたり、結局ゼロに戻ったり。
それでも自分らしく生きるのか、ステータスに甘んじて生きるのか?
アレンの出す結論は現実的で皮肉だけど、小気味良く優しい。
ヤンの催眠術で見た夫はもちろん、突然現れた昔の恋人の幽霊も、すべては自分の気持ちの投影に過ぎない。世間知らずで夢見がちな女性の妄想と言われたらそれまでだけど、それだって真摯なことには変わりがない。
「自分探し」という言葉は嫌いだけど、ミアが演じるアリスのそれは体当たりすぎて危なっかしくてコミカルで、何よりいじけた感傷が少ないから好感が持てる。
上流社会の軽薄さというものをアレン自身が実感しているのか、怪しげな医者が熱烈に流行ってしまうところや、女性たちの澄ました意地の悪さ、彼女たちが考える範囲での「優しさ」の描写がなんともリアル。
極端な皮肉さにも笑いにも偏らず、一人の女性の身体に「人生」がちゃんと見える。彼のほかの名作に比べればこじんまりしているけれど、秀逸な作品です。
極私的映画スケジュール(9月)
■エコール(@シネマライズ、公開日未定)
ギャスパー・ノエの公私にわたるパートナーであり、『ミミ』の監督であるルシール・アザリロヴィックの新作。
森の奥、堅牢な城壁によって外界から遮断された美しいお屋敷兼学校(=エコール)に住む、少女たちの透明でちょっと怖いお話。
閉ざされた学院と少年という組み合わせで、『ベンヤメンタ学院』という映画があったな。
原作は19世紀のイギリス人作家フランク・ヴェデキントという人。
記念に球体関節人形作っちゃったみたいです。アニエスベーが衣装作ってます。
原題がinnocence。
■溝口健二映画祭(@恵比寿ガーデンシネマ、9月9日~10月20日)
『雨月物語』『山椒大夫』を始めとする19の溝口作品を一挙上映。
全作品観たい!と途方のないことを思ってしまう。
こういう映画祭には通し券とか回数券があったらいいといつも思うのに、あまり無いのが現状。
まあ、難しいのかもしれないですね。
『映画史 選ばれた瞬間』
'05/仏 監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
4時間に及ぶ大作『映画史』を新たに編集したものです。
女優の独白的語り、陰鬱な男声のナレーション、そしてゴダール特有のスクリーンに映し出されるテクスト(字幕ではない)とともに過去の数々の名作とそのワンシーン、ワンショットあるいはセリフがが次々に映し出されてゆきます。
ストーリーというものはありません。ただ映画と歴史をめぐる「旅」があります(劇中でのセリフでも『人間不在ね』という皮肉を自ら出すくらい)。
『夜の狩人』『鳥』『巴里のアメリカ人』などの映画における名作に限らず、リベイラなどの名画、文学者の言葉や女優の貌がスクリーンをかわるがわる埋め尽くし、時間や空間を束の間無効にして映画と歴史の裏にある「闇」や「無」に観る者を滑りこませてゆきます。
どう考えても自分がゴダールについて的確なことを言えるとは思えないのだけれど、観たからには記録しておきたいので、以下、極私的記述。
ゴダールは『私が死ぬとき、映画も死ぬ』と言う。
それはたぶん、ある意味で正しい。
もちろん、彼が死んだところで映画やその技術は死なない。
むしろ、技術はさらに進化するだろう。現行のスクリーンによる映画の受容形態すら塗り替えられる日がくるかもしれない(仮想現実による体感型とか…これを映画と呼ぶかどうかは議論の余地があるけれど)。
では、なぜ彼の死に際し映画が死ぬのだろうか。
それはつまり、映画に対して映画によってなされる激しい内省が絶たれるということだと思う。
このことによって、映画の可能性は半分ほど死ぬ。
この映画はこれまでの映画史の「総括」ではない。光はもちろん輝かしく、しかし闇は闇のままに映画は終わる。
ただ膨大な流れの一点をすばやくすくい上げ、めまぐるしい速さで流し、また闇の向こうに去ってゆく、それだけのこと。そのそれだけ、がすごいんだけど。たぶんこの映画は永遠に『未完』なのだ。
というのも、この映画はつねに彼方へ「開かれて」、「動き続けて」いるから。それは過去や未来に対して開かれているということだけでない。こちらの次元とあちらの次元、そのまた向こうの次元にさえもということだ。
そう、開かれているから難解なのだ。閉じているから難解なのではない。
閉じているもののほうが、分かりやすい。それは硬直しているからだ。
終盤になって彼自身が述べる『映画は芸術の幼年期』という言葉に対しては判断保留。問いに対する結論の一部をなすものなのだろうけど、まだ十分に考えられていません。
スクリーンに映し出された数多くの言葉の中で最も印象的だったものは、
SEUL LE MAIN QUI EFFACE PEUT ECRIRE(消し去る手のみが書ける)
というもの。他のセクションでもeffacer(消す)という他動詞は使われていたので何となく気になっていて、その時は記憶が忘却の一手法だということと関係しているのかな、と思ったのだけどこれも今の段階ではなんとも言えず。
もう一度、というか何度でも観たい作品です。その度に分かること―下手すると、30年後になってやっとわかることも―が一つ一つあるだろうから。
その突き放し方、厳しさ、偏屈さ(笑)がとても好きだよ。
いつだって油断したくない。緊張させてください。もっと先が、彼方があるのだと思わせてください。

