Women of Many Faces イザベル・ユペール展
無骨さがエロスを反射する、というのは本来近代のイギリス人女性の特権だと勝手に思っている。
要は女性が女性であることを謳歌しずらい環境に生きる女性にそれは宿ると思ったのだ。化粧っ気のなさやひっつめ髪、装飾性を欠いた衣服、手にぴたりと寄り添う手袋にこそ、小さなほつれから大きな崩壊をもたらしてしまうような欲望の芽があると。
それに比べるとフランス人のエロさというのはお国柄と言うのか、それほど回りくどくなく良くも悪くもあけすけな印象がある。
これはもちろん、かなり乱暴な括り方ではあるけれど。
なにが言いたいかというと、イザベル・ユペールはその「無骨ゆえのエロス」を体現している稀有なフランス女優ということだ。
エロスを湛えたフランス女優なら、もちろん他にもいる。ファニー・アルダン。エマニュエル・ベアール。カトリーヌ・ドヌーブには、少しヒステリーとストイシズムがあるかもしれない。
でも、イザベルに関しては、ストイックというのでは足らない。抑圧というのも、彼女が主演した『ピアニスト』にならばあてはまるけれど、実際の彼女はもう少しのびやかな印象がある(見たわけじゃないが)。自然体というのでも明らかに足りず、それで「無骨」ということになる。
この無骨だったり極端に厳格だったりする貌と、ものすごく淫靡になる貌とのあやうい攻防とでもいうのか、そんなものがイザベル・ユペールの身体ではいつも起こっているような気がする。
女優ならだれでも(というか女性ならだれでも)そんな揺れはあるものだけれど、その振れ幅が彼女は異様なまでに大きいと思うのだ。
厳格な貌にかすかな欲望の徴を残すそのやり方も、他の女優の追随を許さない気がする。
その貌をヘルムート・ニュートンでは紅くぎらつかせ、パオロ・ロヴェルシでは閃光に変え、アントワーヌ・ダガタでは水溶性のゆらめきにゆだねる。
ロバート・ウィルソンの映像作品では瞬き一つで日没と夜明けをやってのけて、ピーター・リンドバーグの写真では鉄塊のように重く、厳格に唇を結ぶ。
そしてブレッソンでは、恩寵にも近い光のなかに腕も髪もまなざしも、ゆったりと投げ出す。
イザベルの貌にはいつも「適切な矜持」があるように思う。
高すぎない、低すぎないプライド。それってすごく難しい。少なくとも、私には。
絶対目録を買おうと思ったのにすでに完売し再入荷の予定もないというのが非常に残念でした。
※イザベルって誰?と思った人は、まずフランソワ・オゾンの『8人の女たち』から観るのが良いかも知れません。他には『主婦マリーがしたこと』『ボヴァリー夫人』『ブロンテ姉妹』、『ピアニスト』『勝手に逃げろ/人生』など。
極私的映画スケジュール(8月)
アカデミズムも持て余す、20世紀屈指の思想家ジョルジュ・バタイユの著作『聖なる神』を映像化したもの。よくこんなもん作る企画が通ったもんだ。
監督は『NOVO/ノボ』のクリストフ・ガレル。
バタイユの母を演じるのが、ブレッソンのドキュメンタリー にも出演したイザベル・ユペール(『主婦マリーがしたこと』『8人の女たち』)で、これが期待を大きくさせる。
欲望と知性の混ざり合う、彼女の貌が好きなんです。
ちなみに現在東京都立写真美術館にて、72人の写真家が捉えた彼女が『イザベル・ユペール展』として展示されています。
ブレッソンの撮った彼女は、必見です。
それにしても梅毒で失明というぐだぐだなバタイユの父は、誰が演じているんでしょう?
■『DOGORA』@東京都立写真美術館(8/26~)
監督パトリス・ルコント自身が「ずっとこういう映画を撮りたかった。10年前はその勇気がなかっただけだ」と言ってのける渾身の作品。や、昔勇気が無くてよかった。
でなければ『髪結いの亭主』も『イヴォンヌの香り』も観られなかったんだから。
音楽はエティエンヌ・ペルション。
■BOW30映画祭@シャンテ・シネ(7/15~8/11)
ジャン・ルノワール!ロベール・ブレッソン!ゴダール!ヴェンダース!
タルコフスキー!カール・ドライヤー!ロメール!エリセ!シュ・レ・ン・ド・ル・フ!!!
書いただけで鼻血が出そうですが、他にも名監督の名作ばかりを集めたこの映画祭、8/5(土)・8/6(日)にはゴダールが新たに編集した『映画史』も上映される。
映画狂人、蓮実重彦のトークイベントもあり。チルドレンでごった返しそう。
ほかにもビースティ・ボーイズ(@シネマライズ)とか、マンソン・ファミリーの事件を扱ったパンク人形劇(@シアターN渋谷)とか、ティント・ブラスとグリマルディのどうしようもない官能映画2本立て(@銀座シネパトス・公開中)とか。
血沸き肉踊る(?)夏になりそうです。
ハチミツとクローバー、予想以上にキャストがうまく馴染んでいるので、観に行ってしまうかも・・・。
『愛の神、エロス』
'04/オムニバス 監督:ウォン・カーウァイ(『若き仕立て屋の恋』) スティーブン・ソダーバーグ(『ペンローズの悩み』) ミケランジェロ・アントニオーニ(『危険な道筋』)
三人のカンヌ映画祭受賞監督が送る、贅沢なエロスの断章です。
『若き仕立て屋の恋』
仕立て屋の見習いチャン(チャン・チェン)は、店の指示で上得意のホア(コン・リー)の元を訪れる。多くの娼婦たちがそうするように、住まい兼’仕事場’である彼女のアパートの部屋は、チェンの訪問時も事の最中であった。
自らも反応してしまったチェンの身体を眺め、ホアは彼の手を取って言う。
「まだ半人前だわ。いい仕立て屋になりたければ、大勢の女に触れて」
この日からチェンとホアの、美しいドレス越しの官能が始まる…。
『ペンローズの悩み』
目覚まし時計のメーカーに勤めるペンローズ(ロバート・ダウニーjr)は、新製品の開発と言うプレッシャーに加え、ある奇妙な夢を見続けることが悩みで精神分析医のもとを訪れた。
その夢は魅力的な女(エル・キーツ)がバスルームに居ところから始まる。彼女は鳴り続ける電話のベルには一向に気づかずに、悠然とバスルームを出てメイクと支度をすませると、まだベッドの中にいるペンローズにキスをして出てゆくというもの。ここで彼は必ず目が醒める。
憔悴しきったペンローズ。彼を悩ませる、夢の正体とは…?
『危険な道筋』
太陽が照りつける夏のトスカーナでバカンスを過ごすクリストファー(クリストファー・ブッフホルツ)とクロエ(レジ-ナ・ネムニ)は、二人の関係の終わりを実感しながらもいまひとつ最後の決断をできずにいた。美しい自然に囲まれても、二人の気持ちはすれ違うばかり。
口論の末、散歩の途上に取り残されたクリストファーは昼にレストランで見かけた若い女性(ルイザ・ラニエリ)を訪れて関係を持つ。
その一方でクロエもまた、トスカーナの自然と向き合いながら、変わろうとしていた…。
ひいき目でなく、短編として面白く完成度が高いのはカーウァイの作品でしょう。
『欲望の翼('90)』から常に生の勢い、匂いを映像に描きだしてきた彼ですが、ここではその対象が完全に死に転化し、その匂いを描き出すことに成功しています。
壁に染み付いていそうな、体液の匂い。その最期にはもはやスクリーンに姿を現さないホアの、その身体の死臭。最後にただ一度だけチャンが味わう、肉体の「死」。
はじめからチェンに約束されていたものは、ただその死だけでしかないとでもいうような、全編にわたる静寂。
勢いある生と隣り合わせの死はこれまでの作品にもしばしばみられましたが、これほど「死」の側に強く寄った(単純に登場人物の死をさしてこう言うのではなく)作品は初めてでは無いか、とも思います。
選曲も相変わらず、にくい。
『2046』で整理された膨大な脳内世界から新しく生まれた、カーウァイの新境地ではないでしょうか。
※他二編についてまったく書かなくてごめんなさい。
『アンリ=カルティエ・ブレッソン 瞬間の記憶』
’03/瑞・仏 監督:ハインツ・バトラー 出演:アンリ=カルティエ・ブレッソン エリオット・アーウィット アーサー・ミラー イザベル・ユペール ロベール・デルピール他
20世紀の偉大な写真家、アンリ=カルティエ・ブレッソンの、自身によるドキュメンタリーです。
この記事を読む人は、フランスの写真家と言われたら誰を真っ先に思い出すのだろうか。ナダール?ブラッサイ?ロベール・ドアノー?
パリのアングラの人々の貌を撮り続けたブラッサイ、街角の日常が物語に逆流する瞬間をロマンチックに撮ったドアノー、それらが見る人に「パリ」の夢を与えるものとするなら、ブレッソンの写真はもう少し違う場所にある。
どこにあるのか?
ブレッソンの写真は、彼らのそれに比べるともう少し規模が大きく、歴史的な瞬間にも富んでいる。そしてその作品にその一事件を超えた何かを人が思うとしても、だからといってそれを「普遍」という言葉で片付けてしまうのはあまりにも安易だろう。そんな生ぬるいもんじゃない。
普遍というのは非常に有効な幻想だけど、だとしたらブレッソンが撮ったのは普遍ではなく、人がその普遍という観念を捏造するに至ったより根源的な記憶、瞬間である。
ドキュメンタリーは、チュイルリー公園を臨む自宅で自身の作品を眺めながら、作品のエピソードを語るブレッソンと、彼と彼の写真について語る人々で進行します。
映画監督ジャン・ルノワールの助監督を努め、ロバート・キャパと写真集団「マグナム」を設立し、インドネシアの独立をフィルムに収めた彼が作品と共に記憶を遡ると、20世紀が立体絵本のように浮き上がってくるような気持ちになるから不思議。
ストラヴィンスキー、アーサー・ミラー、エズラ・パウンド、サミュエル・ベケット、サルトル、ボーヴォワール、ガンジーに至るまで、撮って撮って撮りまくった彼の写真には「顔」でなく「貌」がある。
本来曖昧な水彩画のように彷徨を繰り返す人の顔の中に、生きた彫刻としての「貌」を見出すのです。
それは瞬間を正しく捉えるということ以上に、瞬間と瞬間との裂け目を自ら切り拓き、突出させ、それを捉えるという写真家の力量なんですね。
彼が撮った女優イザベル・ユペールの写真は、なんというかもう「恐ろしい」。これが「写真家」なのかという驚き。機会があれば、独立した記事にしようと思います。
『構図と配置が一番大事。感情はあとからついてくる』という彼の洞察力は限りなく正しい。
それは感情の軽視ではなく、オブジェとオブジェの交歓(=構図、配置)とズレにこそ感情があるという至極まっとうな感覚。そうだよ、そこにパサージュがあるんだよ。
オブジェどうしのパサージュを、観る側が新たなパサージュとして捉えるんだ。
2004年の夏に亡くなってしまった彼だが、晩年は撮ることよりも絵を描くことが楽しかったようで、もうパリの街は撮らないと言っていた。
構図と配置の美学に生きる彼が絵画に回帰していくのは、自然なことだと思う。
その絵は優しく、しかしおそろしく正確で、このひとの眼はいったいどうなっているんだろう、と思ってしまった。天才。
『ガッジョ・ディーロ』
’97 フランス・ルーマニア
監督:トニー・ガトリフ(『モンド』)
出演:ロマン・デュリス ローナ・ハートナー イジドール・サーバン オディヴュー・バラン
フランス人青年とルーマニアのロマ(ジプシー)との交流を描いた作品。傑作。名作。
押し付けがましいエピソードも感動もなく、ただロマの「生きる」姿が淡々と、しかし切実に描かれることでこ
ちらに伝わってくるものは、彼らの暖かい血の感覚。
そして、彼らの歌と踊りがとにかくすごい。
ヨーロッパ映画におけるロマ、特に女性は官能的で情熱的な誘惑の表象として、しばしばけばけばしい衣装
に描かれるが、この映画で描かれるロマの女性はそのような紋切り型から離脱している。
着ている衣装も、彼らの本来の生活のためのもの。
しかしその生活の合間で披露される歌や踊りはとても魅力的で、そういうものが「生きている」からこそ、死や哀しみがあるからこそ生まれるのだということを教えてくれる。
彼女たちの踊り、彼らの歌は激しいのに、いつもどこか哀しい。それは、彼らの宿命ゆえだろうか。
前作『モンド』(')の主人公、家族を求めてニースの町を自由に歩き回っていたモンドののちの姿も見える。
いったい、「放浪(nomad)」とは、人間にとって一体なんであろうか。
自由をもとめて放浪する者(『モンド』におけるモンド、本作における主人公ステファン)、ロマたちのように迫
害されて放浪を余儀なくされる者。
どちらにも哀しみがある。
だから、放浪する者たちからしばしば優れた物語が生まれるのかもしれない。
ちなみに監督トニー・ガトリフ自身にもロマの血が流れているとのこと。
そして『ガッジョ・ディーロ(Gadjo Dilo)』とは、「よそ者」という意味。
1月18日『グラン・ブルー』
88、フランス
監督:リュック・ベッソン
出演:ロザンナ・アークェット(ジョアンナ) ジャン=マルク・バール(ジャック・マイヨール)
ジャン・レノ(エンゾ・モリナーリ) ポール・シナー(ローレンス教授)
『日曜日の恋人たち』を観て「あれ?ジャン=マルク・バールってこんな色男だったっけ」と思い、久しぶりに見てみる。
・・・でも、このころのジャン=マルクには、私にとってのオブセッション(魅了されるけど、同時に目を背けたくなるようなエッセンス)はないや。
リュック・ベッソンには相変わらずそれ程には興味が持てない。『ニキータ』('90)は好きだけど。
それよりは2000年にあったあの悲しい知らせのこともあって、ジャック・マイヨールに対する関心が改めて沸いた。晩年の鬱病。そして自殺。綺麗過ぎる魂のせいだろうか?
マイヨールは大変な親日家で、長崎にも家を一つもっていたらしいけど、すごく印象的だったのはその長崎の沖にイルカが迷い込んだときのエピソード。
保護のために躍起になる人々にマイヨールはぶち切れて、フランス語で
「死ぬものなら死なせろ!」
と叫んだのだそう。
そのとき傍らにいた大河内はるみさん(長崎の旅館・洋々閣の女将)はこれを日本語に通訳してみんなに言ってくれと彼に頼まれたそうだが、周りの雰囲気からしてとてもこれは言えるものではなかったとか。
こういうふうに生命を見つめてきたマイヨールだから、ファンにはその自殺を「なぜ?」と悔やまれるのだろう。
部屋の首吊りロープは海から最も遠いところにありそうなものだから。
1月17日 『アデルの恋の物語』・ 『日曜日の恋人たち』
■『アデルの恋の物語』、75、フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:イザベル・アジャーニ(アデル) ブルース・ロビンソン(ピンソン)
シルヴィア・マリオット(ミセス・サンダーズ)
晩年のトリュフォーはあんまり好きじゃないけどやっぱり全部観とかなきゃと思い、借りた。
イザベル・アジャーニの演技力が画面を引っ張っている感じ。
アデルとはヴィクトル・ユゴーの次女のこと。
長女は溺死したり次女はこんなんだったり、ユゴーも切ないもんだと思う。
というか、トリュフォーがユゴーの身辺を映画の主題したあたりがトリュフォーらしい、というのは間違いだろうか。
同じ時代を生きたフランス映画の監督でありながら、ゴダールとは全く違う所以のようなものを感じる。
いままでは『終電車』も途中で寝てしまっただが、好きになるかはともかくトリュフォーの映画の見方は分かった。
過去の偉大な映画もしくは文学への、優れたパロディもしくはオマージュとして観ればよいのだ。
■『日曜日の恋人たち』、98、フランス
監督:ジャン=マルク・バール
出演:ジャン=マルク・バール(ベン) エロディー・ブシェーズ(テレーザ)
検視官ベンが死姦した美女テレーザが蘇生してしまうという始めからショッキングというかエグイ内容だが、
ジャン=マルク・バール(『グラン・ブルー』)のやつれた貌が結構好きで最後までしっかり観てしまう。
エロディー・ブシェーズが美しく、愛らしく、醜いけど清らかというこの映画の全体のイメージをしっかり集約している。
しばらくこのカップルが好きで好きで何度も夢に見てしまいそうだ。
ジャン=マルクの監督作品とエロディの出演映画を片っ端から観なければ。