〇あなたは意識的に成長を目指し始めた時、あるいは意識的に知恵を求めた時、自分の不完全な部分が人生に現実化するよう意識的に求めたことになる。以降、怒りや嫉妬、恐れなどが現れてくるたびに立ち向かうか、感情に任せた行動をとるかの選択を迫られる。そして、行動に移すたびにパワーを失うあるいは獲得することになる。

 腹を立てるよう、ねたむよう、あるいは恐れるよう誘惑され、そのその感情に立ち向かうたびに、あなたは自分にパワーを与える事になるのである。誘惑に打ち勝つ事ができないと結論付けることは、無責任に生きる許可を自分自身に与えることに他ならない。もしあなたが「これにはとても抵抗できない。これに打ち勝つパワーは自分にはない」と主張する自分の欲望、あるいは衝動に直面したとしたら、それはあなたの「依存症」である。魂のエネルギーに対抗するあなたの自我の一部が持つ、強い欲望である。

 それは、具現化した魂の中で、最も癒される必要のある部分である。

 それは、あなたの一番の欠点である。

 


 

〇感覚は極めて明瞭なバロメータとなり、感情は本当のところあなたが何を体験しているのか、またその体験を自分自身にどう伝えているのかに関するとても明確なフィードバックとなる。あなたが率直さと受容の心をもって自分の感覚を体験するなら、より深い感覚があなたの内にさらなる気付きをもらたす。
 わかりやすく言えば、あなたの内側を流れる感情や感覚のエネルギーは変容の炎のための燃料なのである。自らの感覚・感情を開くことへの恐れは、実際のエネルギーの流れに関係している。精妙なエネルギー諸体が開き始めると、現実に物理的感覚刺激が肉体内を流れ出すのである。これは本人が気づいていないと警告になりえる。なぜなら何かしら根本を揺さぶられるような重大なことが起きているのが分かり、感じられるからである。
 その人が自分の人格や現実についてどんな決定を下しているか、あるいは現実のどこに存在ししているかによっては開くという行為は実に恐ろしいことかもしれない。しかし、それでもなお自分という存在のより壮大なる空間、より大いなる気付き、より大きな自由や可変性や流動性の感覚に自分を開くことは、あなたの生まれながらの権利である。この霊的生得権に向けてあなたの精妙なエネルギー諸体は進化しているのである。あなたはただそのプロセスの進行を自らに許せばいいのである。

 


〇物質とエネルギーには互換性がある。具体的に言えば、すべての物質は本質的に「閉じ込められた光」あるいは振動の速度を落とした光である。ホログラフィーはレーザーという高度に位相のそろった光線を用いた映像の特殊撮影により3次元的映像が作り出せることを示している。現像された映像を撮影時と同じ角度で見ると3次元的な立体映像が現れる。
 実はこれは毎瞬あなたの日常で起こっている現象なのである。あなたがゆるぎない実態として体験している物理的世界は、物質のホログラフィー的性質によって創り出された蜃気楼である。
 あなたの意識にしても文字通り位相のそろったレーザー光線のようなものである。そこで起きていることの全ては人類が全員で同じものを「見る」ために自分たちの意識のレンズをどういう角度で構えるかについて合意したその映像なのである。けれども、人類の神経は物事のそうした表れに拘束されているわけではない。意思の焦点をどう当てるかでこの世界の感知の仕方は変えることができる。
 しかしこれはあなたが普段考えるように思考を通してなされるわけではなく、気づきと意図の強い連携を通してなされることである。気付きと意図が合わさると、文字通り時間と空間の構造が「ワープ」して全く異なる世界を知覚するようになるのである。

 


 

〇誘惑は、あなたに魂のパワーとの接触を促す、慈悲深いプロセスである。目の前の出来事に誑かされたり、脅かされているとき、パワーを失っている。その時のパワーは、外側の物事にある。一方、自分の魂側に自分を同調させる類の選択を行うたびに、あなたは自分自身にパワー充填することになる。

 真のパワーは、そのようにして獲得されていく。それは、一つ一つの選択とともに、徐々に築かれていくものである。真のパワーとは、瞑想や祈りによってではなく、選択の積み重ねによって獲得されるものなのだ。例えば、もし怒りを放出することを選んだとすると、その時あなたは、あるエネルギーの鋳型を創造したことになる。すぐにその周囲には、様々な体験が引き寄せられてくる。そのエネルギー・パターンは、あなたが怒りを放出できるように、あなたの内側に存在する怒りを次々と現実化させだろう。

 あなたが自分のネガティブな側面に立ち向かい、それを放出することを選択する、その側面は頻繁に現実として姿を現してくる。そして、あらゆるものが、その目標の達成を支援し始める。あなたの怒りが作り出す様々な状況が、夢の中で示されることもあるだろう。あなたの内側に怒りを発生させる状況が、あなたの前に繰り返し出現してくるだろう。あなたの人生は、まるで怒りを中心に築かれているかのように見えてくる。なぜなら、それは、立ち向かうことを選択したあなた自分の一部であるからだ。宇宙は、その選択に、慈悲深い反応を示し続けている。

 


 

〇人が自分の深い感覚を開こうとする時、多くの場合、同時にそれを体験する事への抑制や恐怖がとても強いという傾向に気付く。そこでエネルギーとしての感覚がどのように動くのか、またそれらが精妙なエネルギー諸体にどう影響するのか、このプロセスを安全に展開させる方法についていくつかの提案。
 進化や気づきへの壮大なる一歩は、自らの感情や感覚を開く過程の中で起こる。それぞれの精妙なエネルギー体が特定の周波数に共鳴することを覚えておくこと。前述の通り感情体はスシュムナと強く結びついている。あなたの生命力そのものであるプラーナ体すなわちスシュムナと感情体はとても密接に絡み合っている。もしあなたが自分自身に深い感覚体験を許せばそれによりスシュムナは高速で振動する。これはヒステリックになったり激しく感情的になったりすることとは違う。感情を表に出す出さないに関係なく、ただ深い感じる能力の豊かさがスシュムナの振動を早めるという意味である。
 チャクラはあなた方が感覚と呼ぶものと結びついている。エネルギーが胸の中央部「大いなる変成器」であるハートチャクラに移ると、この感覚のエネルギーはその最高の調整で鋭敏に調和された周波数へと変化する。ハートチャクラの位置が上位チャクラのちょうど中間にあるということが「大いなる変成器」としてよく言及される所以である。
 ハートチャクラは忍耐の「中心太陽」とも呼ばれ、より高次の意識と全体性に至るエネルギーの流れのすべてが生じるという片持梁のような部分である。ハートチャクラは花弁状であるが、他のすべてのチャクラが精妙な領域ではまさに花にそっくりのエネルギー構造をしている。心の花が開く時には必ず感覚の広がりが生じる。であるから感覚体験が増えれば増えるほど開いた心の花びらもさらに成長するのである。そして感じることをおろそかにしたり辞めてしまったり、自分の感覚に正直でなくなると、花弁は閉じがちになる。
 どれくらい自分を開く深く感情や感覚を体験できるかについて誰もがそれぞれ快適さの限度というものを持っている。これはその人の過去の条件付けに関係している。実にあなたの過去の様々な体験が、自分の感覚にまつわる内的姿勢や快適さのレベルを作り上げてきたのである。
 地球で今起こりつつあるのは、どんどん細切れになっている時間の中での目まぐるしいほどの体験の激増である。その結果、それに反応して感情や感覚を揺さぶるような状況が未曽有の増加を見せている。実はこうした状態こそ成長を加速するチャンスなのである。ところが自分に沸き起こってくる感覚・感情やその深さが不快に感じられると、そうした感情の流れを実際に遮断したり、減速させたりしてしまう。
 あなたの人生の瞬間瞬間に体験する感情・感覚のエネルギーこそが、あなたをより高次の意識状態へと向かわせる食糧であり、燃料に他ならないということである。

 


 

〇自信の我欲に気付いていて、調和の達成を意識的に目指ししている人は進化を遂げるために、ネガティブなカルマを創造することはない。もしあなたが、我欲と魂のニーズとの間の戦いに、意識的、かつ真剣に介入することを選んだのなら、その時からあなたは、ネガティブなカルマを創造しなくても進化が可能となる力学の中に入っていくことなる。「誘惑」という力学の中にである。


〇誘惑とは、ネガティブなカルマが引き起こす体験の本番並みリハーサルであり、もしあなたがそれを利用したならば、あなたの特定の欠点が、ほかの魂たちと共有する大きなエネルギー場の中にあふれ出ることなく、あなたの個人的なエネルギー場の中で排除されて癒されることになる。それはある種の疑似体験であり、もしあなたが、それを通じて自分のネガティブな性質を見ることができたならば、その性質は、新しいネガティブなカルマ想像する前に、あなたから効果的に取り除かれることになる。

  あなたは、その疑似体験に反応する事で、それに気づくことで、実際には体験しなくても、自分自信を浄化することができるのである。誘惑とは、なんと素晴らしいものなのだろう。それは、あなたの意識を、意識されないままでいたらネガティブなカルマを創造するような出会いへと引き寄せる。磁石のようなものである。言い換えるなら、誘惑とは、人間の間エネルギーシステムから、ネガティブな性質をもつものを、それがほかの人たちに危害を加える前に取り除くゆうデザインされた、ある種の思考形態である。魂はこれを理解している。誘惑という力学は、外にあふれ出て集合意識を汚染することなく、まるでそれ自身の意思を持つかのように、人間のエネルギー・システム内で完璧に作動する。


〇誘惑は「罠」ではなく「好機」である。それを通じて魂は、ネガティブなカルマを創造することなく学ぶことができる。意識的な選択を通じて、直接的かつ速やかに進化を果たせるのである。

 誘惑のエネルギーは、人間に対する挑発的な力、すなわち「ルシファー原理」として知られる力だと考えられているが、それにはパワーの進化を支援する働きがある。ルシファーには元来、光をもたらすものという意味がある。誘惑、すなわち、ルシファー原理という力学システムを通じて、魂は、光に抵抗する様々な部分に立ち向かう機会を慈悲深く適用される。ルシファーのエネルギーは、エデンの園の物語の中では「蛇」として描写されている。

 「人間を誘惑することはできるが、支配することはできない、人間以外の存在」としてである。ルシファーのエネルギーは、あなたを誘惑する。それは、死を逃れないレベルの人間、すなわち唯物論者を誘惑する。しかし、その蛇には魂を破壊する力はない。それは単に、物理的な世界とあまりにも強く結びついたあなたの側面を、脅かす事ができるだけである。

 蛇は地球に属している。もしあなたが、地球にあまりにも近づき、地球の神々を崇めたり、地球を自分の神あるいは主人として奉ったりしたとしたら、その時にはあなたも、嚙まれることになるだろう。

 


 

〇人の感じるという性質はスシュムナと密接に結びついた感情体に起因している。感情体のエネルギー場はあなたのの肉体を取り巻いているだけでなく肉体と重なり合ってもいるのである。感情体は何かの原因で活性化されると、特定の速度で振動し始め「エネルギーの流れ」を放つ。それは体中をくまなく流れるが、その流れが相当強く感情反応が生じるような場合には、肉体の体内組織にも、流れが感受される。よって感情反応が強ければ強いほど肉体が受け取る感覚刺激は大きくなるのである。
 アセンションのプロセスに至る鍵の一つは、エネルギー的に言うなら、あなたのエネルギー場を開いて、それが自由に流れるようにしておくことである。より多くのエネルギーをより肯定的な形で流すことをマスターする能力は、感じるという性質を育むことによって身についていく。
 感情は健康に影響する。そのことは地球の化学によってもこれまで以上にハッキリと実証されている。しかも、人がある種の感情、すなわち無条件の愛と需要という感情の振動性エネルギー場にあると、極めて重要な特定の肯定的共鳴が起こる。
 これは、細胞間の共鳴を生み、DNAに肯定的な影響を与える。それによってDNAは強化され情報のより正確なコード化が促進されるのである。こうした肯定的な共鳴は実際にあなたが無条件の愛と受容という感情を抱いたそばから、その都度発現する。当然のことながらあなたがそうした感情を多く体験すればするほど、あなたの自己全体は例えばDNAや肉体、感情体などといったあらゆるレベルで益することになる。そしてスシュムナのプラーナ体が強化され、幸福感も増すことになる。無条件の愛と受容のエネルギーを感情体の内に循環させることで、より深いヒーリングが活性化され、バランスがもたらされるのである。
 あらゆる感覚や感情をみずらか体験していくことは、あなたのスシュムナにエネルギーを流すパワフルな手段である。しかし若くして困難な立場に置かれた人は往々にして自分の状況を頭の中で「悪いこと」と分類し、そのために生じてくる感情に抗おうとする。
 自分の感覚や感情に抵抗していると、感情体は本来の振動を保てなくなり、凍てついて固まってしまう。感情体の動きや振動が正常でなくなると、知的認識力が低下し思考も曖昧で不明瞭かつ混沌としたものになる。

 


 

〇怒りや嫉妬、恐れといった、自我のエネルギーによる創造を選択した時、あなたはパワーを喪失する。自我は、パワーを外側の物として理解している。それは、競争、脅威、損得の大きさなどの観点から、物事を見る。あなたは、自我と同調しているとき、五感の領域、すなわち、外側の状況や物事にパワーを明け渡している。その時あなたは、自分自身からパワーを奪っている。あなたは、自分の霊的な自己の存在と、その起源及び不滅性を認識し、それを第一に考え、肉体的な自己は第二に考えて選択しながら生きられるようになったとき、自我と魂の間に存在し続けてきたギャップを埋めることになる。その時、真のパワーを体験し始める。

〇魂から疎遠になった自我は、満足する事ができない。たとえ満足を感じる事があったとしても、それはほんの一瞬の体験であり、次の瞬間には怒り、恐れ、あるいは羨望などにとってかわられてしまう。自己の相反する側面同士が、常に戦いを繰り広げているためにである。ただし、その葛藤自体は、あなたのカルマを創造することもしなければ、進化の道を決定することもない。それらを行うのは、その葛藤に対するあなたの反応である。あなたは、自分の相反する側面軍と意識的にかかわることで、望み通りのカルマを創造する反応を意識的に選ぶことができるようになる。その時、選択の背景に関する認識と、それぞれの選択肢の予想される結果の数々を、決断のプロセスに持ち込める。あなたにとって、自分の決断のプロセスのなかに意識的に介入することは、自分の進化のなかへと意識的に介入することに他ならない。これを行うには、もちろん努力がいる。しかしそれは、無意識のうちに怒りや怖れに満ちて行動することを選んで、その結果を体験しながら生きることよりも、大変なことなのだろうか? すでにあなたは、「自分が思いやりのない行動に及ぶたびに、それによって他人が体験させられるのと同じ苦難や苦痛を、自分でも体験することになる」ということを知っている。これは努力に値しない事なのだろうか? 自分が選択しようとしている行動の結果を想定し、その中に身を置き、その時に自分がどう感じるか、どれほど快適であるかをチェックすることは、もしもそうすることで、愛、思いやり、そして真のパワーの獲得につながるものであるとしたら、努力する価値が十分すぎるほどにあることではないのだろうか? あなたが決断のたびに行う、自分を自分の魂と同調させる努力は、何倍にも報われることになるのである。

 

〇人をエネルギー体としてみた場合、注目すべきカギとなる中核的エネルギー場はプラーナ体である。人が自分自身の臓器や肉体組織にどれだけエネルギーを注ぎ込めるかは、いかに生命力すなわちプラーナを引き込めるかで決まる。
 プラーナが混乱すれば、他のエネルギーも混乱する。そうすると肉体は低いレベルのエネルギーでしか機能せず、思考力が低下し、感情的にも不安定になる。それではプラーナがあなた方の肉体という銀河を始め、それ以外の精妙なエネルギー諸体にも光を流せるようにするために、少しでも多くのプラーナを導くにはどうすればよいか。
 そのカギは、あなたの体の中心を貫くプラーナ管にある。このプラーナ管は、ヨーガ行者たちの伝承による「スシュムナ」という通路とおよその面で符合している。スシュムナとは脊柱基底で生じたクンダリーニ・エネルギーと呼ばれる生命力が、体内のそれぞれのエネルギーの中心であるチャクラを通過して上昇し、頭部のチャクラに至る道筋のことを言う。
 登頂に達したクンダリーニ・エネルギーは宇宙意識という意識レベルないしは非常に高次な意識状態である「すべてなるもの」とのつながりを開く。生命力であるクンダリーニエネルギーはこのスシュムナという通路を通って上昇するが、もし人体解剖を試みたとしても、これを見つけることはできない。これは実に極めて精妙なエネルギーであるが、確かに存在している。
 人の世界に存在しているほかのあらゆるものと大差なく、ただそれが人の感覚器官が知覚しうる1パーセントの現実の外にある周波数の領域に存在しているというだけである。しかし、スシュムナと違いプラーナ管は脊髄の道筋に沿ってあるわけではなく、クラウンチャクラのある頭頂から会陰まで一直線上に伸びている。

 


 

〇自分の様々な感覚に注意を払うことで、あなたは自分自身のいろいろな部分とほしがっている様々な経験に気付くようになる。ただし、それらのすべてを一度に手にすることはできない。というのも、それらの多くは互いに相いれないものであるからだ。より多くのお金とより大きな家を欲しがっているあなたの一部は、貧困と空腹に耐えようとしているあなたの一部とは相いれない。ほかの人々の長所に思いやりと共に手を差し伸べるあなたの一部は、自分に都合の良いように利用しようとするあなたの一部とは相いれない。あなたが自分のある部分を満足させると、別のある部分の欲求が満たされなくなってしまう。

 一つの部分の満足が、別の一つの部分、あるいはいくつもの部分に苦痛を与え、その結果あなたは、引き裂かれることになる。自分の人格の様々な部分を認識するようになると、自分の内側の様々な力を意識的に体験できるようになる。

 それらの力は、あなたの現実を形作るあなたの意図として採用される事を目指して、つねに競い合っている。この力学の中に意識的に侵入する事で、あれなたは、自分の内側の特定の力を意識的に選択する能力、自分のエネルギーをどこに、どのようにして集中するかを選択する能力を身に着けることになる。

 意識的に選択しないと、無意識のままでい続けることであり、それは無責任にパワーを行使する事である。分裂した人格の存在と、それらを調和の取れた状態にする要請が認識されたとき、そこには意識的選択の必要性が出てくる。どんな決断に直面した時にも、自分は自分のどの部分を養いたいのか、そしてどの部分を排除したいのかの選択を強いられることになる。

 責任ある選択とは、それが導くことになる結果に気を配った選択である。責任のある選択を行うためには、決断する前に必ず「この選択によって何が起こるのだろう、自分は本当にそれを発生させたいのだろうか?・この選択の結果をすべて受け入れる準備を本当に備えているのだろうか?」と自問しなくてはならない。

 自分が行おうとしている選択の結果に、じっくりと思いを巡らすこと。そして、自分がどう感じるかに注意を払いながら、「自分はこれを本当に発生させたいのだろうか」と自問し、そのあとで決断する。

 あなたが何らかの選択を行うときに、その結果を考えて判断し、その結果が出るまでの間中、常に意識的であったとしたら、それは責任ある選択である。

 魂レベルで欲しがっている経験を養うとともに、我欲に立ち向かい、それを排除することができるのは、この責任ある選択を通じてのみである。それは、明晰さと知恵に満ちた選択である、変化を意識的に選択することであり、これが真のパワーへと意識的に向かわせる道である。

 


 

〇睡眠・夢・覚醒といった日常のあらゆる体験を通じて、呼吸は継続し、脳の活動も継続する。その結果、体の中では絶えず活動が行われれている。超越意識を創り出すには、脳の活動が停止しなければならないがそうかといって、脳が全く静止してしまってもいけない。
 脳の活動を一時停止の状態にするがそれは受け身の状態ではない。それは無活動の機敏な状態である。脳をこのような中間的な状態を保つためには、神経系の機能全体についても活動でもなく静止でもないという特定の状態に置かなければならない。息が通っているのでもなく、通っていないのでもないという中間的な状態に呼吸をとどめておかなければならないのである。神経系の機能をこのような中間的な状態に持っていくためには体の訓練が必要である。なぜなら体は習慣として目が目覚めているときは活動し、眠っているときには静止しているというようにパターンがはまっているからである。それが体の通常の状態となっている。
 であるから、この体を訓練して、活動を一時停止しても受け身の状態に陥らないようにしてやらなければならない。体が普通に機能している時の体験は大体において、目覚めているか眠っているかのどちらかである。眠くなると心身が次第に鈍くなる事から、私たちは眠りが近づくのをある程度まで知ることができる。
 しかし、眠りが近づくにつれて、体験能力が減少するから、実際にはいつ眠りが始まったのかわからない。眠りかけの時はまだ感じる力が残っていて、自分の意識が次第にかすかになっていくのがわかるのであるが、眠りに入ってしまうと何も感じられない。意識は次第に薄れていってゼロになるのであるが、意識が消える最後のところは体験できないのである。そのことでわかるのは、体も心もこのような状態では完全に正常であるとは言えないということである。もし、神経系全体が正常であれば純粋意識を体験できるはずである。その意識状態は深い眠りともほとんど同じであり、同時に覚醒状態の最も精妙な状態ともほとんど同じである状態である。
 異常というのはちょうど外的な体験に常に従属しているために、神経系に一つの型が押し付けられてしまったともいえるような状態である。正常であれば想念の始まりを体験できるはずである。体が完全に純粋であれば、すなわち脳の状態が生理的にみて完全に純粋であれば、想念の開始点が体験できる。
 生理的に純粋であるとは、鈍さと緊張が全くないということである。私たちの通常の心の状態では、ある想念が浮かぶ時、心はその想念によって曇らされる。そして、心はその想念に掛かりきりになる。その想念が行動に代わり、目的が果たされると、心の願望も満たされる。例えば、花の匂いを嗅ぎたいという場合、まず、その想念が心に浮かぶ。想念が意識的なレベルまで来ると、心が手に命令して花をとらせ、花を待ってこさせる。私たちはここで花のにおいをかぐわけである。そして、花のにおいをかぎたいという願望が満たされ、願望はそこで終わるのである。
 脳が正常に働いて居れば一つの願望が満たされてから次の願望が起こるまでの間に心は純粋存在の状態、すなわち純粋意識を体験するはずである。悟りに達した人の場合、その人が願望を体験するときはいつもこんな具合である。
 ある願望が成就し、次の願望が起こるまでの間その人は神意識の自然な状態を楽しむのである。その理由は脳の中に何の活動もないからである。しかし、活動がないといっても脳は受け身の状態にあるのではない。神意識の状態すなわち純粋意識の状態を体験しているのである。
 二つの想念の間には純粋存在の状態がある。どんな想念ではも純粋存在の状態から起こるのであり、雑念と想念の間にはギャップがある。このギャップはその中に体験のない単なるギャップであってはならない。脳の活動が正常で心と神経系が純粋であればどの二つの想念の間にも神意識の状態を体験できるはずである。しかし、体験できない場合が普通は多いようである。
 私たちは疲れると心が鈍くなり、機能しなくなる。脳が正常な機能を果たさなくなるのは、不順物質が溜まる結果である。その原因は物質的なものの場合もある。例えばアルコールは脳に影響を及ぼし、心を鈍くする。活動も心を疲れさせ鈍くし神経系を消耗させるので、心は精妙な領域はもちろん粗大な領域の体験すらできない状態になる。
 不純な物質や疲労や間違った考え方はすべての心のエネルギーを消耗させ、脳の物質を汚染する。したがって極めて精妙な状態の体験を認識する神経系の能力は損なわれてしまうのである。疲労が特に大きな原因である。疲れると心は精妙なことを体験できなくなる。不適切な食物をとった場合も心が鈍り眠くなったり、イライラしたりする。私たちはいろいろなものを食べたり飲んだりするが、その飲食物の中にも何か心に影響を及ぼす不純なものが含まれていることがあるのである。
 物質的な要因が心を鈍くする影響を持つならば反対に心を鋭くする力を持った物質的な要因も考えられる。過労のために心が鈍くなり、眠くなるとすれば、逆に生き生きとエネルギーを増すようなものを持ってくれば心はよみがえり、機敏になるはずである。生理的な方法とは、心を鈍くする物質的な条件を神経系から除外することである。したがって、体の中の不純物と疲労の理由を突き止めることが必要である。
 神経系を浄化して超越意識の状態を創り出すのに必要な正しい条件を神経系の中に作り上げるようにしたいのである。そのために、体が最も正常な状態になるような生理状態を神経系の中に創るのである。人間の神経系は超越意識を得る能力が備わっているがゆえに完全である。しかし、適切でない飲食物をとり、悪い空気を吸っていては体は超越意識に達するのに適した生理状態になれない。したがって神意識に至るための生理的な方法は、次のように分けることができる。
①正しい食物を選ぶこと②正しい活動を選ぶこと③不適切な食物と不適切な活動の影響を体から排除すること。