メモ
ウェディングサイトとカカクコム/AMAZONは微妙に違う気がする。
なんていうか、個人が垂れ流す情報にどうやって検索KEYをつけるのか?
ということが本質的な課題であろうという認識。
カカクコムは、価格は軸だけれども検索KEYじゃなくて、
結局検索KEYは商品なわけだ。
商品名だったり型番だったり。
そういう意味では、AMAZONも同じ、個人の意見を本とかCDとか
製品に紐付けているわけだ。
逆に製品に紐付かない(扱っていない製品の)情報はサイトに入ってこない。
扱っていないというのは、微妙でサイト上で明確にKEYが定義されていない対象につ
いては情報がない。
たとえば、アマゾンはCDを扱うけれど、アーティスト自身やレーベルやライブには製
品コードが無いから情報が無い。
本当は、Cdに対する批評の中に入ってたりするのだけれども、アーティストやらレー
ベルやらの配下に情報が紐付いていないので、実質的に検索できないわけで、そうい
うのは死んだ情報になるわけだ。
で、ウェディングサイトの経験者の声ってのは、なんというかちょっと方向が違う。
でもまぁ、詰まるところは検索KEYの問題なので一緒になってしまうのだが、
ウェディングサイトに集まってる情報ってのは、ドレスやら指輪というKEYには紐付
いてなくて、そのウェディング斡旋会社または挙式プランに紐付いているわけだ。
うーん、でもまぁ結局は一緒か。
商品コードをKEYに個人の意見を引っ張るか、ウェディングプランをKEYに個人の意見
を引っ張るか。そういう違いに過ぎない。
Wikipediaや教えてGOOは、何が凄いかと言うと、今までの情報(個人の書き込み)の集め方は、商品コードやら、ウェディングプランやら、検索KEYをWeb管理者がせっせと用意して情報をユーザが入力していたのだが、検索KEYの設定すらユーザに投げてしまったという点が秀逸なわけだ。
だがしかし、教えてGOOの質問と回答が役に立つかというと、かなり微妙?
質問内容自体のレベルもまちまちだし、回答も適当な回答が多いのが現実。また、極
度にカスタマイズされている質問は、他者のしたい質問とは常にずれている。さら
に、質問自体が自由入力だからカテゴライズされてはいるものの検索しづらく、似た
ような質問が永遠に繰り返される。DBは肥大化するけれども、検索結果の質向上はは
るか未来になりそうな気がする。つーか、永遠に無理そうな気がする。
Wikipediaは内容自体の質は高いけれども、百科事典を指向しているから、突っ込んだ情報は入ってこない。本に書いてある内容どまりであって、個人の好き嫌いやらに依存する情報は得られないし、○○するにはどうすれば?的質問には答えられない。名詞に対する意味情報を蓄積するところまでしかできない。
質の高い質問、質の高いピンポイントな回答、さらに質問と回答は再利用可能(別の
人が見ても役に立つ)っていうのが素晴らしい情報だろう。
教えてGOOの二の舞にならないためには、検索KEYの設定を体系的に行わなくていけな
い。つまり、質問文が自由入力ではいけない。一方で、当然だけれど、質問自体に十
分な自由度は与えなくてはいけない。
質問をKEYにすると、失敗した。
逆に回答をKEYにDB作ると?
質問がないと回答は存在しないのだけれども、今Webに転がっている良文、駄文が全
てなんらかの質問の回答と考えるのもアリ。結婚式先にやってた人のWebは左子の質
問の回答に近いものを、質問が来る前に準備してたわけだ。
質問がないのだから、正確な解答は用意できない。各個の質問は、普遍的な質問じゃ
ない限りは、個人的なカスタマイズされたものだから。
だけど、回答の切れ端みたいなものがあれば、そこに質問すれば回答が得られそうな
ことが判別できるわけだ。
質問を放り投げる(GOO型)だと、KEYが機能しないし、回答も専門家なのか知ったか
ぶりなのかわからんやつから返ってきてしょぼいDBができる。
回答を放り投げる(Web公開、ブログ公開)だと、Keyがそもそも存在しないから、
情報にたどり着けない(たどりつきにくい)で死んだ情報になる。
気合でググレばいんだがね。。
そもそも、お互い放り投げるから無茶なわけで、ある程度カテゴライズしようよ。
的な発送は出てくる。
でもGooも質問はカテゴライズされてるし、WebページもYahooディレクトリ検索みた
いにとっくにカテゴライズされてる。
だけど、いまだにうまくいってないわけだ。
探したいものがなかなか見つからないんだから、まだ自由度が大きすぎるのだと思
う。
探す人もある程度までは自分で探す必要がある、答える人もある程度はまでは自分の
情報が回答になる質問を捜す必要がある。
お互いに歩み寄りがいる。
大いなる矛盾
働かないで過ごすためには金が要る。わりと大金が。
だから、大金を手にするために、体を削り・魂を削り・時間を削り、労働にいそしむ。
働きたくないという夢を叶えるためには働かなくてはならない。
この矛盾。この矛盾の大きさ。
これは、体から不要なものを排泄し、身体を浄化する行う脱糞によって、図らずも肛門が汚れてしまうという矛盾に通じるところがある。
そう。それが言いたかった。
プログラミングと自由
なかなか自由になることはない。
食べるための日々につまらない労働に従事しているとき、僕は自由を感じない。
ただただ歯車としてクルクルまわる自分を感じる。
パソコンをいじるのが趣味だが、それは自由を感じるからかもしれない。
自由とはそもそも何か?という話になるが、
思考したことを行為に移せることが、きっと自由なのだろう。
思ってもできないことは多い。
もちろん、いきなり思ったとおりのことはできないだろう。
インターネット上に散らばるエロ画像全てを集めるプログラムの開発というのは
一筋縄でいくものではない。
しかし、一歩づく近づくことは可能だろう。
スキャンして、ブルーとフォースでこじあけて、.jpgを頂くとか。
なんというか、思考に向けて一歩づつ行為を進められる。
そして、進めていることを実感できる。
プログラミングは。
そういうのを自由というのだろう。
思考を行為にそのまま移せたらなんでも自由か?
という問題はある。
思考の源泉が動物的な本能だったり、過食症による食欲だったりした場合、
たとえば、街行く女性全てをすれ違いざまに犯すのが自由で、過食症の導くままに食い続けるのが自由か?
というそうでも無い気がする。
そういう話をすると、そもそもエロ画像収集ソフトの開発は自由か?ということになるが。
(ちなみに、そんなもの私は作っていない)
基本的には、思考を行為にそのまま移せることが自由の基本的定義であろうが、
思考の源泉については、ある程度フィルタをかける必要があると思う。
それがなんなのかは分からないけれど。
最近、プロクシプログラムの話をしてない。
なぜって、デバッグしてないから。
でも、昨日は200で実施したところ、178ユーザをGETした。
あぁ、でも全くデバッグしてないわけではない。日々発生する意味不明の不具合を解消するために
場当たり的な対処はしているようにも思う。
そんなこんなで、ジャンルランキングがついに3桁になった。
人物評
歴史には偉い人がたくさんいる。英雄とか呼ばれる感じの人。
時代の節目節目に現れて、時代の先を読み、意志持ち、実行した人。
ただなんというか、よくわからないのだが、当の英雄達は、本当に英雄的に重大な決断を下したのだろうか?
カエサルはどんな気持ちでルビコン川を越えたのだろうか?
諸葛亮はどんな気持ちで、赤壁で風が吹くと決めうちしたのだろうか?
秀吉はどんな気持ちで毛利を講和して明智を討ったのだろうか?
徳川家康は、小早川(だっけ?)に鉄砲を撃つとき、どんな気持ちで意思決定したのだろうか?
きっと、みんなそれなりに(自分なりに)根拠みたいなものはあって、それで決断したのだろうけど、
なんというか、どれもきっと、絶対ではなかったはず。
当の本人達も一か八かの賭けであることを認識しつつ意思決定したのではないだろうか?
何が言いたいのか既に分からないけれど、
英雄的な決断が下される時、そのプロセスやら、決断の下され方やら、実行方法やらは、
きっと別に英雄的である必要はないと思う。
数多の意思決定のひとつでしかない(当然大きいものではあるだろうが)。
結局、それが英雄的なモノに昇華するのは、結果が出てから。
結果のインパクトが巨大であったことが判明するのが、長い長い時間が経ってから。
最良の結果が熟成した結果が英雄。
今の時代、英雄はいるのだろうか?
いるのかもしれない。
良い結果を残している人はたくさんいるだろう。
でも同時代人が英雄かどうかは分からない。数千年の時の洗礼を受ける必要があるから。
何を言いたかったんだっけ?
皿洗いつつ思ったこと
バランスについて。
バランスというのは結果としてバランスが取れていれば良いと思っていた。
白と黒とグレーという3色を使って説明する。
私は、意志薄弱。持続的意思が非常に希薄な人間であるからなのか、
決定は常に明白に、目標は常に明白に、白か黒!と決めるべきだと考えていた。
目標に進んでいくうちに、当初の熱は冷め、黒は白に、白は黒に近づき、結果は限りなくグレーとなるから。
白か黒か、自分の意思を極端なまでに明確化しても、限りなくグレーなわけで、
当初の目的は、達成されたのかどうかよう分からん状態になるわけで、
そんな私ごときが、最初からグレーを目標にすえたならば、それはもうグレーなわけで、当初の意志が達成されたかどうかすら怪しい状況のまま、よくわからないまま、グダグダに放置されるわけである。
なので、自分の性格を考慮した上で、何かしようと!と決めるときは、さらに一歩考えて、なるべく極端な目標を立てるように努力してきた。
たとえば、よくわからんが、ある作家の本を読もう!と決めたら、適当に読むのではなく、全ての著作を一覧化しして、全集も含めて全部読む!を目標にするみたいな感じ。
まぁ、そんなのは、到底無理なわけで、読んでるうちに作家にも飽きて、まぁまぁたくさん読んだとこでおわるわけだ。結果はグレーだが、それでも、立てた目標が極端だからか、じゃっかん多目に読んではいるので、あるていど結果としての色はつくという感じ。
そんな感じでやってきた。
ところが、最近、そういう極端な決定というのが、ことごとく上手くいかないことが多い。
歳を取ったからだろうか?と考えた。
昔は、目標は自分の中で完結していることが多かった。
他者が介在するにしても、それほど影響がなかった。
齢、25。この歳になり、他者との関係を意識せざるおえない場面が多々ある。
社会がいやおうなく、自分に迫ってくる感じ。
社会という枠組みに、どんどんハマッていく自分を意識することはあまり無かったけれども、
最近の上手く行かない感じは、そういうこと、つまり、社会にドンドンとハマっているにも関わらず
それに気づかず、自分の世界に居た頃を同じように振舞おうとするために、そこに矛盾が起きているのでは?
と疑っているのである。
極端な意思決定、目標は、自分の中で完結している場合は良い。
自分の中では、最終的にはグレーな状態になることも見越していて、それを踏まえての決定だから。
社会という枠組みの中で、極端な意思決定をすると壁に当たることが多い。
当然である。極端なのだから。
しかし、とうぜん、壁はあって、極端なものがそのまま通ることはなく、結果としてはグレーに落ち着く。
だが、グレーに落ち着くまでの過程が、凄惨を極める。