ボナぺティ
はい みなさまお疲れ様です
なんだかんだなんだかんだで
もう午後九時
本当に今日は忙しく
本当に疲れました
飲みに行く元気すら失せて
ひさしぶりに晩飯の賄いに
チャーハンなんぞを作ってみたわけです
決してまずくはないのですが
やはり一人ご飯は美味しくないなぁ
晩御飯を自分のためだけに自炊している人って本当に偉いなぁ
と改めて思うわけです
僕の場合 店だから
コンロはたくさんあるし
調理器具や調味料も食材もそろってるから
当たり前の話 作ろうと思えば何でも作れるのですが
これワンルームマンションだったら
コンロ一つだし
シンク狭いし
冷蔵庫小さいし
あ あの調味料ないや
って再び買いにいかなくちゃならない
だから僕は9年間すんでいるマンションで
料理をしたのは一回くらいだし
大学卒業してから結婚時期を除いて
15年間一人暮らししているけれど
料理したのはたぶん五回くらいなような気がするわけです
ただロンドンで一人暮らししていたころは
せっせこせっせこ料理を作っておりました
というのも
外食が鬼のように高いし
一人で食べれる安価な店って
ジャンクな店か中華料理屋かパブくらいしかなくって
そんな群衆の中で一人で食べるくらいなら
作ったほうがましですしね
日本からもってきたレシピ本を片手に
いろいろいろいろ作っておりました
おっ
俺意外とセンスあるかも
これいいね
なんて自画自賛したりしてね
そうこうしているうちに
変な自信がついちゃって
その頃 付き合ってた彼女の両親に和食を振舞ったり
僕のフラットで仲の良い中国人や韓国人とかトルコ人たちを招待し
料理を出したりしているうちに
海外においてホームパーティーが
なぜ重要視されているかが分かるようになるんですね
もちろん料理の話題というのもありますけれど
それに付随してお酒の話 食器の話 スウィーツの話から
BGMにいたるまで異文化コミュニケーションの話題の宝庫なわけです
もちろん 日本だってBBQとか鍋パとか焼肉パーテーとか
たこ焼きパーテーとかあるけれど
本質的には料理の話題は
旨いかまずいかくらいの話であるものの
みんなで囲むものですから美味しいにきまっているしね
上記以外でのコース的な料理を提供するホームパーテーなんて
ほとんど御呼ばれしたこともないし
あっても出前とか仕出しとかケータリングとか出来合いのもの
つまりお金で買えるものであり
つまり主体が料理ではなく
主体が同じ価値観を持ったものが集まり会話をするということであり
料理は目的手段であるわけです
ホームパーティ自体が日本の文化に適応してないし
そもそも異文化コミュニケーションの場がないから
発達しないともいえるわけなんだけれど
各々の家庭でおもてなししあえることができたとするならば
もっと日本は仲良くなれると思うわけなんですね
お
ま
け
移民を受け入れる話がどんどん出てきてるけれど
そうであればそういう風に我々も異文化コミュニケーションの
スタンバイをする必要があるかといつも思います
昨今ディベートされている移民の話って
なんかね感覚的に白人が黒人を労働力として
アメリカに連れてきたときのように聞こえるのは僕だけでしょうか
そんなにね都合よくないし
そんなにねあまくないよ
ほんとに
10年前のイギリスもそうでしたし
いまのイギリスも移民規制を掛けるために相当苦労している
あんだけリベラルな国なのに
税金
社会保障
教育
犯罪
宗教
テロ
モラル
差別
マイノリティの優遇によるマジョリティの攻撃
実際のところイギリス人の友人たちはいつも
これらの社会問題で頭を悩ましておりました
本当にいろんな意味で大変です
僕は反対しているわけではありません
僕自身が海外に移住することを考えていますから
ただ
日本人にメリットとデメリットを精査する心構え
そして
価値観が大きく変わる覚悟が
出来ているのかが知りたいわけです
次は終点 西神中央 お忘れ物のないようにお気をつけ下さい
はいみなさま
お疲れ様です
お元気にされていますか
あと一日がんばれば週末がやってきますね
踏ん張ってください
さて今年も半分が過ぎましたが
皆さま年始に立てた計画はちゃくちゃくと進んでいますでしょうか?
やせる
とか
英語の勉強をする
とか
日記を書く
とか
彼氏 彼女を作る
とかね
たぶん 多くの人が計画通り進んでいないと思いますが
そりゃそうでしょう
東京オリンピックのスタジアムだって
紆余曲折しているわけですからね
たかだか一個人の意思なんて吹けば飛ぶようなものなんです
実際僕自身も計画のスクラップ&ビルドを毎年重ねているうちに
何一つ成就できないことを学びまして
最近は年始に計画というものを立てないようにしております
※多少は立てますがとても抽象的なものばかりでどうにでも解釈できるわけです
するとですね
まるでスケジュール帳を持たない自由人のように
何の後悔も 何の制約もなくなり
好きなときに本を読み
好きなときに映画を観て
好きなときに好きなだけ好きなことを出来る
まるでキリギリスのようだなぁ
と時々思いつつ
そんな頭だけ僕のキリギリスを
気にしないようにしていたのですが
先日ですねトラック野郎Fチームと二人で
新開地で飲んでおりましてね
話題がFチームの子供の話になったわけなんです
「いやーかわいくてね
いやー娘なんてとりわけかわいい」
と大きな鼻の穴をさらに大きくしながら
その可愛さをずーと語っておりましてね
そのお子様たちがまだ五歳くらいだったら
この人もオヤバカだな
夢見てんだろうな
反抗期とか来たら
「おまえをこんな風に育てたつもりはない」
とか偉そうに言うんだろうな
とか想像しながら聞くのですが
実際 彼の子供は19歳と高校生だったかな?
それくらいの御年でありまして
それでいても
「可愛くて仕方がない」
と言っていることに
親バカなんて微塵も感じることがなくて
ただただ羨ましく感じ
「お父さん お嬢さんをください」
と伝えたら
一蹴されたのは
いいとしてですね
あ 何やってんだろ
俺
と情けなさすらも感じたわけなんです
僕よりも二歳上のFチームが
19歳の子供の父親をしている
一方で
僕は離婚後プラプラブラブラブラしていて
たまに遊びにくる甥っ子や姪っ子たちと
無邪気に戯れている
この周回遅れ感は半端じゃない
新神戸駅からほぼ同じ時刻に東京駅目指して出発したにもかかわらず
Fは品川あたりに着いちゃってて
僕は何故かしら地下鉄に乗ってて
しかも西神南にあたりにいることに
ようやく気付いた感覚なわけです
あれ どこだここ
ちげーだろ
やべー
そんな感じで明るい家族計画を
本当に真剣に考えにゃいかんな
と改めて思った新開地の夜。
一年の計画はどういい
キリギリスでもいい
アリさんになる必要もない
ただ
人生の計画はちゃんと立てないとね
そんな話
やさしさと思いやりのあいだ
こんばんは
リアリスト大橋です
昨夜に引き続いての
「やさしさ」 と 「思いやり」 問題プラス 「みかえり」 問題。私も考えてみました。
やさしさは全体、思いやりは部分
やさしさは本質、思いやりは考え
やさしさは行動、思いやりは思いを伴った行動
やさしさは自分本位、思いやりは他人本位
やさしさは広義、思いやりは狭義
うーん…
考えれば考えるほど
どれもそのようで、どれも違うような気がする
一生のうちに私が経験できることなんて、ほんの一欠片
やさしさは本質的に持つ性質で
思いやりは経験からくる行為。かな
長くなっちゃったので、見返りについては後日。
ふぁーあぁ
さて、そろそろ寝るとするか