三文の得 | 『昭和23年に生まれて』のブログ

『昭和23年に生まれて』のブログ

堺屋太一の名づけた『団塊の世代』のど真ん中、昭和23年生まれ。
自分の人生を振り返りながら、気の向くままの思い出話。

今朝は4時半にトイレに起きた。

夜は明けていない。

スマホでラジコを開く。

TBSを選局して、サタディ生島を聞く。

今朝は、早起きして得した感じ。

「バカの壁」の解剖学者・作家の養老孟司氏が出演していた。

生島氏が、臨死体験について聞いた。

生島氏は、遠藤周作氏の話も引用していたが、養老先生は脳の問題と言い切った。

さすが、学者先生だ。

臨死体験は、世の東西、人種、宗教を問わず、ほぼ同じ体験だ。

凄くきれいな花畑、光等。

そして出てきた人は、既に亡くなった人で、その死に目に会っている親類、知人なんだそうだ。

決して秀吉とかは出てこない、つまり「赤の他人」は決して出てこない。

臨死体験は、「夢」を見ている状態なのだそうだ。

それも「死」を意識してみている「夢」だそうだ。

ただ、相当に限界と言う状況で見る夢。

今では脳へ刺激を与えることで、同じような状況は作れるのだそうだ。

それだけ脳科学、脳の研究が進んだということだろう。


本来、本人には自分の「死」は解らない。

「自分は死んだ」と意識できない。

「死んだ」を理解できるのは、自分以外の人だけ。


養老先生は、「意識する」について興味あることを語った。

人生を自分で何とかできる、努力すればどうにかなると言うことへの疑問。

何かを意識するとが人生に大切だと思うことに「疑問」を呈した。

「意識」しないといけないことと、してもしかたがないことはきちんと理解して置くこと。

これが大切で必要なことが大前提。

この辺の判断が物凄く重要なポイントなんだろうね。

大概の人間は、この辺がごちゃごちゃと言うか、自分に都合よく「意識」してしまう。


「死」は必ず訪れる。

「死」は、「生」という馴染んできた状態に終わりを告げることだ。

「生」は、何時でもどこでも「意識」できる。

無意識に意識してる。

「死」は、そうは行かない。

だから、死後の世界があると我々は思いたいのだろうか?

ふと、そんなことを考えた。

今日も、「死」を意識しないで、生きている(だろう)。