本願寺はもともと1つで「石山本願寺」といって大阪にありました(その跡地に築城されたのが大阪城です)。
浄土真宗の寺院ですが、石山の明渡しを要求した織田信長との戦い(石山合戦)で和睦派と徹底抗戦派に分かれ内部分裂のようになってしまいました。
11代当主顕如上人(けんにょしょうにん)は、1580年に和睦して、石山から退去して和歌山県へと移ります。しかしこのとき、信長との徹底抗戦を主張した顕如の長男の教如上人(きょうにょしょうにん)は、石山本願寺に籠城。数ヶ月間籠城し戦いましたが、最終的には降伏、信長に大阪石山の地を明け渡しました。顕如に義絶させられた教如は東海、北陸を流浪していました。
本能寺の変で信長の死後、父子は和解。豊臣秀吉は西本願寺の地を寄進しました。
11代法主の顕如が亡くなると、長男である教如が12代法主の座を一度は継ぐ事となりましたが、石山合戦のとき信長との徹底抗戦を唱え顕如と対立したため、翌年には秀吉の命令により弟の准如上人(じゅんにょしょうにん)に職を譲り、隠居させられました。
その後、秀吉が優遇していた本願寺の勢力を危険視した徳川家康は、隠居させられていた長男の教如に六条烏丸の土地を寄進し、本願寺勢力を二分したのです。
そうして教如によって1602年に建立されたのが東本願寺で、教如は本願寺の12代法主として復職したのでした。
東本願寺は真宗大谷派西本願寺は本願寺派と呼ばれるようになりました。
建物の造りは御影堂と阿弥陀堂があり似ているのですが、細かく見ると違います。

東本願寺は仏壇の柱の色が黒塗りで仏具の色は金色です。

一方西本願寺は、仏壇の柱の色が金色で、仏具の色は、黒または黒に近い褐色となっています。

上の2枚の写真が東本願寺、次の3枚の写真が西本願寺です。違い分かりますか?

あと浄土真宗の寺院で阿弥陀如来の掛け軸の上辺に届いている後光の数が8本であれば西6本であれば東です。
すごい歴史ですね。