課題『時計』
ペア・ウォッチ あべせつ
マンション前に着いたが、美雪はなかなか車から降りようとはしない。カーステレオの時計はもうじき日付が変わることを示していた。
「来週はどうしても会えないの?」
「うん、ごめん」
「バレンタインなのに会えないなんて。奥さんとお祝いするの?」
「ちがうよ。あいつとはもう、そんなことをする仲じゃないよ。どうしても断れない仕事があるんだ」
うつむいてスカートの裾をもじもじといじっているその姿が不憫でつい嘘をついた。
「そう、お仕事なら仕方ないわよね」
美雪はあきらめたのか、バッグの中からきれいにラッピングされた小箱を取出し俺に渡した。
「本当は当日に渡そうと思ってたんだけど。バレンタインプレゼントなの。和也さんに似合うと思って。ねえ、早く開けてみて」
「えっ、俺に?」
俺はいそいそと小箱を開けてそれを見た。ルームランプに照らされて上品なシルバーの腕時計が鈍く輝いている。黒い文字盤がクールでスタイリッシュだ。
「どう? 気に入った?」
美雪が心配そうに俺の顔をのぞきこんだ。
「うん、すごくいいね。俺の好きなテイストだよ。でも高かったんじゃないのかい?」
「いいの。だって会いたいときに会えないから。せめて私の代わりにいつも和也さんのそばにいるように身につける物を贈りたいと思ったの。本当はペア・リングが良かったんだけど奥様に知れたらよくないでしょ? 見て、これは私とのペアウォッチなのよ」
美雪はうれしそうに左手にしたおそろいの時計を見せた。女性用として小ぶりにデザインされてはいたが、華奢な手首にそのクールな時計は重たげに見えた。
美雪は俺のしていた時計を外し、新しい方を巻きつけると満足したのか機嫌よく帰って行った。
自宅の駐車場に車を停めると、俺は急いで元の古い革バンドの時計にはめ替え、真新しい包みをダッシュボックスの中に隠した。美雪のいじらしい気持ちは飛び上がるほどうれしいし、俺だって美雪とのペアのものを身に着けていたい。
しかしこの古時計は女房とのペアウォッチで、おいそれとは交換できない。もし急に新しいものに変えたら不審がられるに決まっている。俺は一計を案じることにした。
「あれ?」
翌朝、俺はわざとらしく声を上げた。
「どうかしたの?」
先に出勤しようと玄関で靴を履いていた妻の幸子が聞き返してきた。
「おかしいなあ。時計が遅れてる。ほら」
俺は数分遅らせておいた時計の文字盤とテレビの時報を見比べさせた。
「あら、ほんと。その時計もだいぶ年季が入ってるものね。なんなら今日修理に出しておきましょうか?」
「ええっ、修理? いやいいよ。時計がないと仕事のとき困るから」
「そう? じゃあ、わたし時間がないから先に出るわ。あと戸締りお願いね」
そういうと幸子はあわただしく出て行った。
修理ときたか。どうしたもんかな。
一人残された部屋で、俺は冷めた苦いコーヒーを流し込んだ。
「ただいまあ」
「お帰りなさい。あなた、時計どう?」
「完全にダメみたい。もう止まっちゃったよ」
俺は乾電池を抜いた時計を見せた。
「そう、やっぱり寿命だったのねえ」
「それでさ、この際だから新しいのを」
「でしょ? だからね。ジャーン」
そう言うなり幸子は後ろ手に隠していたプレゼント用の小箱を取り出した。
「はい、新しいペアウォッチよ」
「えっ? 買ってきちゃったの?」
「そうよー。開けてみて」
喜ぶ様子を期待しているような幸子に、どう返事をかえして良いかわからないまま俺は包みをほどき始めた。
「今年のバレンタインで結婚十五年になるでしょう? 水晶婚って言うんですって。記念に何をしようかと考えてたんだけど、今朝時計がおかしいって言ってたから。クォーツの時計、これだって思ったの」
(あっ、これは)
奇しくもそれは美雪が贈ってくれたものと同じ時計であった。開封された箱の中から幸子は婦人物の方を取り出して自分の手首に巻きつけた。
「よく似合うじゃないか」
俺は心から満面の笑みで幸子に応えた。 完