「夕餉の匂い」
夕刊を取りに外に出ると、路地裏にふわりと美味しそうな匂いが漂っています。甘酸っぱさに醤油と油の香ばしさが加わったような、嗅げばたちまち口の中につばが湧き起こる食欲をそそる匂いでありました。
時折ご近所さんの台所から香ってくるのでありますが、それは早世した母が作ってくれていた料理の匂いに似て、ひどく郷愁を誘うのです。
ところが不思議なことに匂いは覚えているのですが、何の料理であったかが思い出せません。
そのご近所さんとは親しくさせていただいているので、朝のご挨拶の折にでも何の匂いですかと尋ねればよいのでありますが、人様の献立を根掘り葉掘り聞くのもいかがなものかと躊躇してしまい聞けぬままに過ごしておりました。
そんなある日のこと。何の前触れもなく突如あの阪神大震災がやってきました。我が家はなんとか無事でありましたが近隣の被害は甚大で、住み屋を離れ避難所へ身を寄せる人が多くいらっしゃいました。
あの美味しい匂いの素を作られるお向いさんも一家そろって引っ越して行かれました。
生活の音も夜間の灯りも消えたまま、町はゴーストタウンのようになりました。もちろんあの夕餉の匂いも漂ってはきません。
いつかまた元のように暮らせるのだろうか。
不安な日々が何日何日も続きました。
あれから二十年が経ちました。
わが町は見事に復興をして、ご近所さん方も全員元の場所に戻って来られました。
そしてまた今も時折、あの美味しそうな匂いがしてきます。みんなして当たり前の日々が送れる幸せの香り。またこの匂いをかげる平穏が愛おしくてなりません。