Re trick
あべせつ
この扉の向こうに憧れの人がいる。
美紅は携帯を握りしめると、ひとつ深呼吸してその重いドアを押し開いた。そのとたん、むせ返るような熱気とロックのBGM、そしてそれに負けまいとするかのような人々の喧騒が一気に押し寄せてきた。
ドア近くにいた背の高い若い男が、この新しい客人を出迎えてくれた。茶髪のウルフカットに骸骨の絵のタンクトップ。ダメージジーンズの腰回りには銀鎖を幾重にもまとわりつかせている。つまりは美紅がもっとも嫌悪するタイプの男だ。
「チケットはお持ちですか」
「あ、はい、あの、これを見せるようにって」
美紅はあわてて携帯のメール画面を開いて彼から送られた《前売り券》を見せた。男はそれを一瞥するとステージ前のテーブル席と案内し、予約席と書かれた札をはずした。
「どうぞこちらに」
客席をはなれて店奥の闇の中へ溶け込んで行く男の後ろ姿は、細い腰と長すぎる手足のせいで美紅に蚊とんぼを連想させていた。
「ねえねえ、あれ、レイジじゃないの」
去りゆく男の姿に気づいて近くの席の女の子たちが騒ぎ始めた。
(レイジですって?)
今宵の待ち人の名が出て美紅は驚いた。
(同じレイジでもタイプは色々ね)
苦笑して店内を見渡すと、二十ほどある四人掛けのテーブル席はほぼ満席で、客の大半は美紅と同じくらいの年頃の娘たちに見えた。彼女たちはどうやらあの蚊トンボが好きらしい。
(わたしの礼治さんは、いったいどんな人なんだろう)
彼がメールで指定してきた待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。何度も入口を目で追う美紅の前に、美しい色のカクテルが運ばれてきた。今夜のドレスと同じ色。
「あら、わたし、何も頼んでませんけど」
困惑する美紅に黒服のウェイターが紙製のコースターをグラスの下には敷かずに手渡していった。見れば何か文字が書いてある。
《ステージが終わっても、そのまま席にいてください。工藤礼二》
(あっ、これは)
ウェイターを呼び止めようとした声は、ちょうどその時、ステージに現れたロッカーたちを迎える歓声にかき消された。
次の瞬間、ステージ上に目のくらむような閃光がさく裂すると、地鳴りのような大音響が客席を揺るがし始めた。
(ああ、苦手だわ、こんな音楽は。礼治さんはなぜこんな場所を指定したのかしら)
工藤礼治とは去年、自作の詩を投稿して評価しあうSNSのサイトで知り合った。ハンドルネーム〈レイジ〉は繊細でありながらも情熱的な詩を書く男で、美紅はたちまち彼の詩のファンになった。頻繁にコメントをやりとりするようになると急速に親しさは増し、プライベートなメールアドレスを交換しあう仲となるのに、そう長い時間はかからなかった。
そんな一年の間に美紅の中のレイジは秀でた額に少し神経質そうでクールなインテリの好男子、つまりは理想の男性の姿に仕上げられていた。
「一度お会いしませんか」
思い切って美紅はメールを送ってみた。
「では早速ですが、明晩のご都合はいかがですか?良かったら。工藤礼治」
すぐに待合せ場所と時間、さらにはライブハウスのチケットが添付されたメールが返信されてきたのだった。
ノイズにしか思えない数曲が終わり、もう我慢の限界かと思えた頃、突然ステージの照明が落とされ、リードギターの男だけにスポットが当てられた。よく見ればさっきの蚊とんぼだった。
「今夜はこの僕たち〈Reトリック〉のライブによく来て下さいました。リードギターのレイジです。今日は新曲を作ったので聞いてもらいたいと思います。いつもならボーカルのタツヤに任せるんですけどね。この曲は大切な人から贈られた歌詞をもとに作りました。だから今日だけは特別にぼく自身が唄います。どうぞ聞いて下さい」
そう言うと一人、弾き語りを始めた。
(あっ、この歌詞は)
それは紛れもなく美紅が作った愛の詩だった。それが甘く切ないメロディーとこの上なく優しいレイジの声に乗って耳をくすぐった。
レイジの視線はまっすぐに美紅を捉えている。美紅の身体はかっと熱く火照り始めた。
(本当にトリックだわ)
美紅は今、レイジが礼治になった快感に心底震えていた。完