「もう大丈夫じゃ。鬼は去ったぞ」
「おお、よかった、よかった」
「これでもう一安心だな」
緊迫感が解け、場内になごやかな空気が流れた。輝夜が影夜を見ると、影夜もこちらを見あげていた。その柔和なほっとした表情に輝夜は幼い日の兄を頼る影玄の面影が透けて見えた。
「大丈夫か」
「はい」
今なら、お互いのわだかまりを消すことができるかもしれない。輝夜は期待をこめて影夜の次の言葉を待った。
「いやあ、一時はどうなるかと思いましたなあ」
「しかし、さすがは輝夜殿だ。蝋燭師としての腕は一流ですな」
「やはり宝月の当主は輝夜殿以外にはいないでしょう」
来客たちの輝夜への賛辞が中庭にいる二人の耳にも届いた。するとたちまち影夜の顔が曇り、元の頑なな冷たい表情に戻ってしまった。
「影夜、気にするな。この家の当主はお前だよ」
「行こう、月目」
影夜は足元にじゃれつく子猫を拾い上げ、懐に入れると足早にその場を離れた。
「影夜」
輝夜は影夜に呼びかけながら、その背中が深く傷ついていることを感じずにはいられなかった。
影夜の姿が見えなくなってから客席にあいさつに戻ると、皆が拍手の元に輝夜を迎えた。
「輝夜殿、決まりましたな。当主はやはりあなたでなければ。皆も同じ意見だと思いますよ」
幽玄の言葉に、来賓も皆、そうだそうだと口々に答えた。
「いえ、皆さん、お待ちください。この件につきましては今しばらくお時間をいただきたいのです」
「輝夜殿、それはどういうことですかの」
蓮華聖人が静かに問いかけた。
「はい、わたしはこの家の当主は影夜だと考えています」
「なんと、おっしゃられる輝夜殿、それは納得のできぬお話。今の技比べでも影夜の力量のなさは一目瞭然ではありませんか」
「そうだ、そうだ。影夜殿は危うく大参事を招くところでしたぞ」
「まあ、皆さん、お待ちください。輝夜殿の話を最後まで聞こうではありませんか」
幽玄はじめ他の客人たちの異議を、蓮華聖人が抑えた。
「ありがとうございます」
輝夜は客席に向かって静かに語り始めた。
「皆さん、わたしはこの家を十数年前に捨てた人間です。その間一度も本家をかえりみることはありませんでした。この家を今に至るまで守り続けてきたのは千さんと影夜なのです」
「輝夜殿、この家の凋落ぶりを見たでしょう。到底守ってきたとは言えぬ話ではありませぬか」
「叔父上、幽玄殿も瑠璃さんからお話を聞かれたではありませんか。わたしが、はからずもこの家を貧させてしまっていたのです」
「それは違うぞ、輝夜殿。信頼できる品、人柄を見て顧客様方も店を選ぼうというもの。
お客様が輝夜殿をお選びなさるは至極当然のこと。選ばれたいのならば影夜は自らが精進せねばなりませぬ。それをあのように自らの私怨で裏技だけに固執するのはいかがなものか」
「叔父上、影夜が裏に固執するは私怨ではございませぬ。影夜がこの宝月を守りゆくための最後の手段が裏の技だったのです。影夜は活路を一子相伝の裏技に賭けたのでございます。今宵、輝夜が皆様に招待状をお出ししたのも、本家とまた取引をお願いしたいと言う思いからでしょう」
「うむ、そうであったか」
「影夜はまだ若い。本日二十歳を迎えたばかりでございます。今からまだまだ修行もせねばなりません。しかしそれは蝋燭師としての話。この家のことを一番考えているのは、影夜です。当主としての器量に不足はございません。影夜を当主とお認め頂けますなら、わたしも今後はこの家の再興に力を貸してまいります。どうか皆様、影夜をよろしくお願い申し上げます」
「輝夜殿、話はよくわかりもうした。あとは御兄弟で話し合われるがよろしかろう。われらはそのご意向に従いますじゃ」
「蓮華聖人、ありがとうございます」
客人たちを丁重に送り出した後、輝夜は一度離れに戻り包みを懐に入れると母屋に向かった。
「瑠璃さん、おられますか」
「はい、ただいま」
千の看病をしていた瑠璃が奥の間から姿を現した。
「瑠璃さん、お忙しいところをすみません。千さんの具合はいかがですか」
「ええ、あまり芳しくは。今はよくお休みになられていますが」
「そうですか。これを千さんの寝室で灯してあげてください。病気がよくなる蝋燭です」
「まあ、お心遣いありがとうございます。輝夜様、技比べはもう御済みですか」
「はい、つつがなく。では影夜はまだここには戻ってきてはいないのですね」
「ええ、まだ。蝋月房におられるのではないでしょうか」
「わかりました。行ってみます。ところで瑠璃さん。あの子猫は」
「ああ、月目ちゃんですか。あの子は捨て猫で、影夜様が何処からか拾われてきたのです。
まだ目も開いていなくて衰弱していましたのを、影夜様が三日三晩寝ずにお世話をなされまして、ようやく元気に。影夜様は目に入れても痛くないほどかわいがっておられますわ。ちょうど昨年にテルが死んでしまって。お寂しかったのだと思います」
「そうですか。やはり影夜はかわってはいなかった。昔のままの優しい気性をしているのですね」
輝夜は母屋を出ると、心軽やかに蝋月房に向かった。
つづく
『鬼灯堂奇譚」をお読みくださいます皆様、いつもありがとうございますm(__)m
この「魔月の巻」も残すところあと3話となりました。(8話完結)
そのあと第3夜『妬月の巻』に続きますが、これは4話完結の短編です。
夏休みのお忙しい中、ご訪問くださいますこと、本当に感謝しております。
最後まで、なんとか面白くお読みいただけたらいいなと、願うばかりであります。
よろしければ今しばらくお付き合いのほどよろしくお願い申し上げますm(__)m