〈魔月の巻 後編〉
《現在 新月祭前夜・宝月家》
新月祭の前夜、幽玄を伴い輝夜は久方ぶりに実家の門をくぐった。
「どうじゃ、輝夜殿、懐かしいであろう。いったい何年離れておられたのじゃ」
「はい、叔父上、十四年になります」
「もう、そんなになるか」
「ところで叔父上、門番がおりませんが」
かつては屈強な番人が門の左右を陣取りいかめしい顔をして立っていたものだった。その門番がいないことを怪訝に思った輝夜に、幽玄は声を潜めて答えた。
「うむ、そなたが心配してはいけないと思って言わなかったがな。宝月の家計、今は逼迫しておるのだ」
「それは、いったいどうしたことでしょう」
門から荒れた前庭を抜け、屋敷にたどり着くと、ちょうど玄関前を掃除していた瑠璃が輝夜に気づいて歓声を上げた。
「輝夜様、輝夜様ではありませんか」
十四年の月日を経ても瑠璃は相変わらずその優しい面のままであった。
「瑠璃さん。お元気そうで良かった。今もまだ宝月においでなのですね」
「はい、今も変わらずお世話になっておりますのよ。輝夜様が今日お越しだと幽玄様から聞いておりましたので、あの離れを掃除しておきました。まずはあちらでご一服なさってくださいませ」
「瑠璃殿、それはありがたいが、まだ輝夜殿は母屋には上がらせてもらえんのか」
「あの、それは」
「いいんですよ、叔父上。わたしも慣れた離れのほうが気を使わずにありがたいのです。
さ、瑠璃さん、参りましょう」
しどろもどろの瑠璃が気の毒になり、輝夜は瑠璃をせかして離れへと急いだ。実際のところ、輝夜もまだ千とは会いたくなかった。
幽玄と共に離れの座敷に上がると、早速瑠璃がお茶を運んできてくれた。
「ああ、瑠璃さん。ありがとう。ところで影玄、あ、いや影夜はどうしていますか」
「影夜様はお元気でいらっしゃいますよ。最近は蝋月房に籠もられていることが多いですわ」
「そうですか。ろうそく作りに励んでいるのですね」
「いえ、それが」
言いよどむ瑠璃に幽玄が話を継いだ。
「それじゃて。宝月の経済が逼迫しておるのは、影玄が蝋燭師の仕事を果たしておらんせいなのだ」
「では影夜は蝋月房では何をしているのでしょう」
「〈裏〉じゃよ。裏の書を見つけ出してからは、その技ばかり試しておる。顧客からの依頼は表技のほうがほとんどだからな。表をせねば経済は立ちゆかん」
「あれほど大勢いた職人たちはどうしたのです。作業頭もいなくなったのですか」
「影玄が皆を辞めさせたのだ。蝋月房に自分一人が籠もるためにな」
「収入がなくては困るだろうに。今はどのようにして暮らしているのですか」
「玄夜殿の貯えを食いつぶしておるわ。玄夜殿亡き後、輝夜殿は遺産を放棄なされて家を出られたが、影玄も未成年、千は血族ではないゆえ相続は出来ず、宝月の資産は一時預かりとなっておった。しかし影玄が来月成人を迎えれば正式に家督を継げるようになる。
そうなれば近いうちにこの屋敷も何もかも手放すようになるだろう。影玄が当主になれば宝月が没落すると言ったのはこういうことなのだ」
「しかし影玄のそのような勝手なふるまいを、あの千さんが放って置くとは思えないのですが。千さんはどうされているのですか」
「輝夜様、千様はここ数年、お体の具合がよろしくないのです。このところは床に臥せったままで」
「そうじゃ、それで他の者たちは全員解雇したのだが、それでは家内のことが立ちゆかん。そこで千は瑠璃さんだけを手元に残したんじゃ。瑠璃さんは今、雀の涙ほどの給金で働かされておる。本来ならば妙齢のご婦人は良家に嫁がせてあげねばならんのに、あの鬼婆は優しい瑠璃さんにつけこんで、ここに留め置いてこき使うておるのじゃ」
「幽玄様、身よりもなく行く所もなかったわたしを玄夜様、冴様は快く置いて可愛がってくださいました。そのご恩を忘れてはおりません。この宝月の家をお守りするのがわたしの役目と思っておりますから」
「ありがとう、瑠璃さん。あなたがここにいてくれて本当に感謝しています」
「いえ、そんな、ではお食事の用意をして参ります。どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
瑠璃は空になった茶器を下げると、離れを出て行った。
「叔父上、わたしは蝋月房へ行って参ります。影夜に会って久々に話がしたい」
「ではわしも一緒に参ろう」
「いえ叔父上、申し訳ないのですが、しばらく二人にさせていただけませんか。積もる話もありますので」
「うむ、しかし輝夜、昔の影玄とは」
「わかっております。だからこそ二人だけで会いたいのです。他に誰かいれば影玄も本音を語れますまい。では叔父上、失礼します」
輝夜は幽玄を離れに残し、ひとり蝋月房に向かった。
つづく