《臨月》
あれから半年が過ぎた。表面上は何事もなく過ぎているような日々であったが、実際のところ家内はかなりギクシャクとした空気を拭えずにいた。玄夜は日がな一日、弟子や職人たちと敷地内の工房・蝋月房で過ごし、夜間にしか寝所に戻らないため、その微妙な空気に気づいてはいないようであったが、毎日を母屋で過ごす輝夜はそのピリピリした空気を敏感に感じ取っていた。
「最近、めっきりご来客が減ったわよね」
「そりゃあ、皆さん冴様に会いに来られていたのですもの。茜じゃあ来る気にもならないんじゃない」
「どうして玄夜様は茜なんかをお選びになられたんだろう。いまだに理解できないわ」
「そうよねえ、あんな何の取り柄もない平凡な女、私たちのほうが器量も家柄もずっとマシだと思うのだけれど」
「玄夜様のように凛々しい美男子には、冴様のように美しくて気高い方がお似合いなのよ。冴様だからこそ、私たちも納得してお仕えしていたけれど、茜に使われるなんて我慢できないわ」
「そうよ。不謹慎だけれども私、冴様が亡くなられた時には、玄夜様に見初められないかしらとちょっと夢見ていたのよ」
「わたしもよ。玄夜様の後添えになれたらと皆が心の中では考えていたはずよ」
「それをあんな茜ごときに盗られたなんて実際面白くないわ」
「それにね、冴様亡きあと、お茶もお華も教えていただいてないのよ。これじゃあただの下働きの奉公人だわ」
輝夜は行く先々でそうした愚痴や不満を耳にしていた。そのうち裕福な家から花嫁修行に来ていたものたちの多くは辞めていき、給金を当てにする少数のものだけが残った。
しかし残った侍女たちも同じ不満を抱えていたため、茜の前では慇懃無礼な態度を取りながら、陰では呼び捨てにして軽んじていた。中には茜をねたむあまりに流産を願う呪詛の言葉を吐くものすらいた。
(お母さまがいた頃には、この家には来客がいつもあふれ、あちこちで笑い声が絶えなかったのに、茜のせいで黒い物の怪の巣食う屋敷になってしまった)
そうした思いから輝夜は新しい母になつけずにいた。
息子の複雑な思いを知らぬ玄夜は、一刻も早く母と呼ばせようと頻繁に輝夜を茜の元に呼びつけた。輝夜が母と呼びさえすれば、茜を正妻として見ぬ者たちも認めざるを得ないだろうと考えているようであった。それにうんざりした輝夜は、自ら寝室を離れ家に移し、母屋に極力近寄らないようになっていた。この半年のうち、茜に会ったのは数えるほどしかなかった。玄夜と部屋付きの侍女の瑠璃以外は寄り付かない、そんな冷ややかな家の中で、茜は臨月を迎えていた。
「輝夜様、お父様がお呼びです。急ぎ母屋までおいでくださいませ」
(いよいよ産まれたのか)
今朝ほどから屋敷内が慌ただしく、新しい弟妹が生まれるのであろうことは輝夜も感づいていた。本来なれば吉事のはずであったが、妙に気持ちがざわついた。
母屋に行くと父、玄夜がさっそく声をかけてきた。
「輝夜、弟が生まれたぞ。茜に祝いを言ってやってくれ」
茜の床に並べて敷かれた小さな絹布団にその赤子がいた。玄夜はその上にかがみ込み愛おしそうに目を細め、新たな命の誕生をただ無条件に喜んでいるようだった。輝夜は自分の方を見返りもせずに赤子に夢中になっている父の姿に激しい憤りを感じて押し黙った。
そしてそんな父の様子を見るに絶えず、きびすを返して部屋を出た。
「輝夜、なんだ、その態度は」
「玄夜様、そのような大声を出されては赤子が驚きますわ」
父の怒号と、それをなだめる茜の声を背に輝夜は一目散に離れへと戻って行った。
玄夜は扱いの難しくなった息子に手を焼き、瑠璃を再び輝夜の部屋付きに戻すことにした。そして茜の世話役としてその実母・千を呼び寄せた。
つづく