第34回虎の穴『一升瓶』 | あべせつの投稿記録

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第三十四回虎の穴


課題「老境小説」主人公が老人の話


『一升瓶』    あべせつ


「正月は帰れそうにないよ」無愛想な息子の声が冷たい受話器を通して聞こえてきた。


「そやけどお前。お盆もそない言うて帰って来んかったやないか。たまには、わしかて孫の顔も見たいし」


「父さん、親子四人の交通費、幾らかかると思てるん?美恵子の実家にも顔出さんとあかんから到底無理やがな」


「なんやお前、あちらさんとこばかり帰ってからに。なんで嫁の親の顔色ばっかり見なあかんのや。尻にしかれとるとは情けないやっちゃな」と正二郎はぼやいた。


その言葉にカチンときたのか、息子・良太の声が気色ばんだ。


「ほんなら言わせてもらうけど、美恵子んとこは交通費全額はもちろん、和也や由衣にまで、たんまりお年玉くれるんやで。そやから子供らも名古屋には行きたがるねん。親父も同じようにしてくれるんやったら、いつでも帰ったるがな」


「な、なんやと!もうええ!二度と帰ってくんな!」正次郎は受話器を叩きつけるように切ると、しばらく怒りが納まらなかった。


(金、金、金か。息子ながら嫌な人間になったもんや。東京になんかに出したんが失敗やった。向こうで見つけた女と結婚したんはいいけど、嫁の言いなりになりやがって。それに郊外で安いから言うて東京でマンションを買うとは何事や。こっちに帰ってくるつもりがないのが、もろわかりやないか。そもそも嫁も嫁やがな。正月くらい里に帰りましょうと自分から言い出すのが本筋やないかい。母さんの墓参りに一度も来やがらんと。もうええ。あんな息子は息子とはもう思わん)


腹立たしさに愚痴が止まらない。ぶつぶつと独りごちていると玄関の呼び鈴がなった。

 

『正二郎はん、いてはる?』


老人会仲間の松っつぁんの声だ。


『おう、松っつぁん。どうしたんや?』


『歳暮にこれ、もろてんけどな。わし酒飲まへんやろ。よかったら正二郎はん飲んだってえな』と一升瓶をくれた。


『おっ、こら有り難い。えらいすまんな』


飲み助の正二郎の機嫌がいっぺんに直った。



部屋に入るなり包みをほどいてみるとラベルに小鼓とあった。


『ほう、こりゃ高知の酒か。高知・・・うーむ懐かしいのう』正二郎の胸に幼い日の郷愁がこみ上げてきた。


正二郎の子供時代は戦争真っ只中であった。大阪にいると危ないということで、どうした事情からか親戚のいる高知へ一人疎開させられた。親から引き離され、見知らぬ土地での不安な気持ちを、楽しい思い出に変えてくれたのが、隣に住んでいた大悟であった。


大悟は正二郎より二つ年上のガキ大将であったが、正義感が強く、他所者といじめられがちな正二郎をかばい、一緒によく遊んでくれたものだった。大悟と正二郎は兄弟のように仲良くなっていった。


しかし終戦を迎え、正二郎は大阪に帰ることになった。その前の晩、二人は固い約束をかわした。


「いつまでも二人の友情は変わらない。大人になったら、また一緒に酒を酌み交わす仲になろうな」と大悟が言い、


「もちろんや。俺また高知にくるよ。大悟に会いに絶対」と正二郎が答えた。それなのに、終戦後の混乱やその後の多忙に、その約束をすっかり忘れてしまっていた。


正二郎は酒瓶のラベルをじっと見ていたが、いつもの膝の痛みも忘れて、すくりと立ち上がった。


(よし。今から行こう。どうせ誰も来やしないんだ。わしは金はないけど時間だけはたっぷりあるんやからな)正二郎は簡単な身支度をすると酒瓶を担いで部屋から出て行った。

 

六十年ぶりの高知の変貌にはとまどったが、吉野川まで来ると、見覚えのある景色が広がっていた。見るものすべてに懐かしさがこみ上げてくる。こうなるともう一刻も早く大悟に会いたい。会ってあの楽しかった思い出を心行くまで語り合いたい。


大悟の家は、建て直したらしく、昔とはすっかり様変わりをしていたが、表札は大悟の姓のままだった。呼び鈴を押すとしばらくして中年の男が出てきた。


「はい。どちらさんで?」


正二郎が名乗ると男は驚いたように家の中へと招き入れた。そして仏壇の前に座らせると、まだ封を切っていない新しい一升瓶を正二郎の前に差し出した。


「先月、親父は亡くなりましたんですけど、死に際に正二郎さんの名前を出しまして、これを渡してくれと。正二郎さんがどこのどなたか、わからなかったので困っていたところでした」

 

墨痕鮮やかに (正二郎へ)と書かれた酒瓶を見て、正二郎は男泣きに泣いた。 完