アルベルト・ジャコメッティ展
ALBERTO GIACOMETTI(1901-1966)
観察メモ
●実存、存在すること、そのことを描いているように感じた。
●「作家の父」平面の、ブルーがすごく綺麗だった。
●アフリカ美術の影響
●キャンバスの中に空間をつくるってどうゆうことだろう。
●キャンバスに描かれた枠は、制作のどのくらいの段階に入れられるのだろう。
●キャンバスの中の対象は、遠くにいるように感じられる。
●フィルターを通して、対象をみているみたい。
●対象との距離をはかっていた。透視図法の操作に似ているかも。
ドイツの画家デューラー(1471~1528)の版画
●トルソーを正面からみると、異様に細い。
●顔に、どんどん色が重ねられ、ほとんど黒くなっている。
●正面は鼻から。側面は耳から。もっとも自分に近い部分。
●キャンバス全体に対象のオーラが…。
●枠がなかったらどうだろう。
●ブロンズと石膏の相違。
●顔しか見ていないのでは…とすら感じる作品もある。
●なぜ絵を描く時に空間が問題になるのだろう。空間ってなんだろう。
●「鼻」という作品は凄かった!
●「鼻」という作品の鼻は、空間からはみ出している。
●芥川龍之介の「鼻」という短編小説を思い出した。
●「鼻」という作品は、まさに鼻に視線が釘付けになる。
●女性は、鼻よりも胸や腹が出ている。
●男性の胸像と、女性の像が作り出す空間
そんなものは、みな大したことではない。
絵画も、彫刻も、デッサンも、文章も、はたまた文学も、
そんなものはみな、それぞれ意味があっても、
それ以上のものでない。
試みること、それが一切だ。
おお。なんたる不思議のわざか。
ジャコメッティ 「エクリ」より
天龍寺の庭について考えてみよう(18)
「脳」整理法 茂木健一郎著からのメモ
「鯉の滝上り」というメタファー(隠喩)
鯉が登竜門の滝に昇ると、竜になってしまう。
もちろん竜は空想上の動物。現在の自分を「鯉」になぞらえ、
天がける竜に変身することを目指した昔の人の希望を、想像できる。
天龍寺の庭について考えてみよう(17)
叢書 禅と日本文化5 『禅と建築・庭園』
庭園の眼差しあるいは生成する庭園 持田季未子著 からのメモ
●鎌倉時代末期の西芳寺(1340)あたりから日本庭園では廻遊の要素が意識化されてくる。
●見通しの悪さこそ、日本庭園の特質。
●見通しが悪く、風景がたえず部分化、断片化されてしまう→それが隠喩的に示している意味とは?
●身体に支えられた庭。
●廻遊を何事かの隠喩として考える。
●まっすぐ進もうとする運動は否定され、視線は限定を受ける。
●つねに隠れている部分がある。
●複数の風景が重層的に共在し、視点の移動につれて継起する。
●部分の接続のしかた
●場所の連鎖
●空間の連辞(主語と動詞以外の述語とを結合させる動詞)
●臨済の思想の原点は、固定化の拒否。
●自分自身に立ち帰る。
●特定の視座を持つことがなく、視点は複数化されている。
●風景が見る位置によって異なることこそ、本来のありかたなのかもしれない。
●一切は変化の相のうちにある。
●時間性、複雑性、部分性、身体性
●禅の時間論
①万物は自然に変化していく。
②その変化には、しかし節目、転機、時の変化のきっかけがある。
③そのきっかけに際して自らのはたらきを全うすることが、人間にとって望ましい。
●多様で還元不可能な意味の複数性そのものを提示する。
●存在しないものを見ること。似ていないものの中に類似を認識すること。
それは本来意味論的なはたらきの一面といえる。これは隠喩の一種。
●石という不規則な形の立体の多様な面を、隣接する石からの影響によって
顕在化していく庭園という造形芸術は、著しく換喩的である。
天龍寺の庭について考えてみよう(16)
叢書 禅と日本文化5 『禅と建築・庭園』
枯山水の形式美と内容美 重森三玲著 からのメモ
●平安朝以来、歌論の上に重要視された問題は、歌の姿の上に別な景気の添うていることを尊重していた。
●一つの自然現象の上に、さらに他の自然現象が追加され、本来の実態に対してこれを隠し、
これを紛らわし、これを調和せしめるなど、そこには種々な方法がとられている。
●叙景(風景を書き表すこと)と、叙情(自分の感情を述べ表すこと)とが入り乱れる。
●言葉に表れぬ余情とか、姿に見えぬ景色とは、形式だけのものではなく、形式を通して感ぜられる内容である。
●平安期における大園池では、池中に浮かぶ島々の姿、更にこの島々の影に見えつ、隠れつする舟の景色、
あるいは又、船の上からもれて来る詩歌管弦の音、といった二異体が統一され景観を作り出す。
●実体をそのまま表現するのでもなく、実体をそのまま鑑賞するのでもない。
●一幅の水墨画的山水図にも複雑化の統一が見られる。
●はっきりしない美の姿ことは、正しい意味での正体。
●隠されている実体を知ること。
●日本庭園における池泉多島形式の出発はのごときは、海島の景を写すことにあった。
●象徴的表現
●室町時代は、自然の景致(おもむき)よりも、水墨画などにおける山水画などを対照にして作られていて、
この場合は、対照が自然そのものでないだけに、著しく象徴的傾向に向かっている。
●剰水残山とは、自己の最も感興にはいった美のみを取りきたって山水を組み立てるという意味である。
あるいは又、その大自然美が全体としての美景であるならば、部分を捨てて全体のみを取りきたって
山水美を構成することである。
●池水の水面における空白の美→空白の地面である白砂。
●空の芸術には、見えざるものの中に見、聴こえざるものの中に聴く表現が隠されている。
●隠すことは、それ自体、芸術における本質。
●空の中には、やがて本質に還元しようとする大きなもの宿されている。
●白砂敷としての空間が広ければ広いだけ、枯山水の広大さを表現する。
天龍寺の庭について考えてみよう(15)
天竜寺の庭を、疎石はつくったとこれまで多くの人が言ってきたが、
ここはやはり疎石が手を加えた庭である。
…中省略…
ここは亀山殿の後に建てたのだから、
以前から大和絵式の庭があったことはまちがいない。
昭和13年に重森三玲氏が実測した天龍寺庭園平面図があるが、
この平面図は、平安時代になったといわれる〈作庭記〉の書割通りである。
寝殿造りの庭にほぼ近い。
それまで一所不在の山居生活をしていた禅僧が、
こんな明るい池泉回遊式の庭をつくるはずがない。
…中省略…
中央の滝石組を疎石がつくった、といえるが、確証はない。
…中省略…
しかし、大和絵式の庭に石組みが加わったことで、
この庭は稀に見る、いやみのないつくりになっている。
ここの石組みは、明るい庭のなかで、
明るさを中和させるための点になっており、
能舞台にたとえれば、
池の広がりを地謡とすると、
石組みは大鼓と小鼓にあたる。
…中省略…
〈碧眼録〉第12則に「老僧が与めに個の無縫塔を作れ」という言葉がある。
無縫塔とは普通は卵塔のことをさし、
僧侶の墓をそよぶが、
ここでは無形の塔、無象の塔のことをさしている。
これは〈国師塔様〉のなかの粛宗と国師の問答だが、
礎石は天竜寺と西苔寺の庭に、
この問答を応用したのではないか、
と思われる。
…中省略…
今日、疎石作と断定できる庭はひとつもない。
すべては伝疎石作である。
それでよいのだと思う。
中世を前後にわけると、
疎石は中世の前半の最後を歩き、
後半に橋渡しをした僧であった。
その功績は見逃せない。
いわゆる「無窓作庭」はそこで息づいているわけである。
『日本の庭』 立原正秋著より
天竜寺の庭について考えてみよう(14)
「禅と庭」についての記述メモ
●山はこれ山にあらず。これ山なり。
●どちらかの一方に限定するのをしりぞける。
●本当に禅が禅であるためには、限定されたものでないということが必要。
●「禅と庭」というよりは「禅即庭」
●絶対者を外に見ないで、自己自身の内に見る。
●即心即仏、非心非仏
●心の外より心の中が重大
●心というものは、無限定のものではなくてはならない。
●禅は、いわば心の内に庭を見ることを示唆した。
●庭を単に外にあるものとしないで、内にある庭の現われと見る。
●窓は人間の感覚器官。
●心で見る。
●大自然も及ばない庭は、人間の心の中でとらえた庭。
叢書 禅と日本文化5 『禅と建築・庭園』 禅と庭 古田紹鉄著より




