帰国事業で、1959年12月から60年代に架けて北朝鮮へ向かった科学技術者は150人に上る。それら北帰科学技術者がどの様に選別されて行ったのだろうか?それを解くカギは木村光彦・金子百合子「1959年の北朝鮮・ソ連科学技術協力にかんする資料」である。
このレポートは上下二冊の抜き刷りが出ている。
『青山国際政経論集』55号(2002年1月号)、56号(2002年5月号)抜き刷りである。
当時のソ連が軍事技術面での遅れを感じつつあり、それを日本から入れる中間点、ココム違反の抜け穴捜しの一環として、いわゆる「帰国事業」に便乗したことが、二冊の抜き刷りから垣間見える。更にその事を後付けさせるのが「1973-74年の朝鮮とソ連の科学技術協力にかんする資料」(63号、2004年5月号)の抜き刷りである。こちらは木村光彦・土田久美子の連名である。
これら抜き刷りが明らかにするのが、旧ソ連は対日技術情報収集に一貫して北朝鮮を使った、目下の同盟として駆使したかである。
菊池嘉晃君は如何なる意図があったのか?如何に意図を欠いたのだろうか?これら青山学院大学の『青山国際政経論集』を引用文献に挙げていない。