玉城素師が亡くなられたのは2008年9月14日であった。その前の月迄、南牛はやりとりがあった。その8年後に恵谷治氏は『NK会40年史』を編んでいる。コロナ前であった。
恵谷治氏は玉城素師の面識を得たのは1991年としている。
南牛は80年代から面識を得ていたのだが、南牛から見ると二人はかなり前からの付き合いがあったように感じていた。
南牛は人付き合いが下手だった。だから、人々の海をかき分けて行ける恵谷治氏は脅威の存在であった。だが、恵谷治氏とは1995年の正月をソウルで迎えて以来、余りNK会で会う事はあっても個人的会話はなくなった。理由は95年春「松本が捕まるか、南牛が捕まるか」などと、筑波迄乗り込んできて朝日新聞社の記者の存在が大きい。
NK会では数人を除いて南牛を警戒する目を向けるようになったからである。その仕返し的反動にNK会の人々にコールネームを付けることになる。
NK会三ハゲと言い出したのはアナスタシアだが、恵谷治氏にコンドルというコールネームを付けて広めた。可成り恨まれたと思うが、東大構内にあるコンドル教授の銅像そっくりだと言い訳をしたが、恨まれたようだった。