減反政策と安重(つくば市政展望-356) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

安部南牛 | 朝鮮文化資料室

安部南牛が、朝鮮関係の本の書評を中心に掲載していくブログです。

橘孝三郎の農本思想の体現者と自己表示する渡辺安重県議は竹内藤男県政のゴリ押しの減反政策に反対した。竹内藤男県知事は農林省の減反政策を忠実に実行している思いであったのだろうが、渡辺安重県議はゴリ押しと受け止め、町役場職員の担当者へ跳ね返せと強い圧力を掛けた。

谷田部町三派は横田栄一町長の急死後に形成されて行く。県議派、町長派、木村操派である。横田栄一町長の急死を受けて町長には助役であった沼尻民平氏が就く。だが沼尻民平町長再選時に木村操氏は町議会議長の履歴を旗印に立候補し、沼尻民平町長と対戦する。だが、農本主義の右翼農民運動家の渡辺安重県議の選挙戦術の前に撃破される。その時の渡辺派がばらまいた文書が、木村家には門が無い、であった。怪文書と言われないのは配布責任者を明示していたからだ。門も構えてないで町長になろうなんてシャラクサイというのである。

そういう渡辺安重県議の家は独特の門、満洲から持ち帰ったような門を構えていた。そういうあくの強い渡辺安重県議の減反政策に抗する態度は、町役場職員を自裁に追い込む。それには沼尻民平町長も竹内農政への批判姿勢の影響もあった。

当時の渡辺安重県議は橘孝三郎門下として国の農政責任者を討つ、と明言している。自裁した職員へのはなむけの言葉であったろう。その渡辺安重県議が都市再開発、東京という巨大都市の「再開発」の為に茨城県下の水田を潰そうという竹内藤男県知事に和したことが理解できないでいる。竹内藤男県知事の減反政策は、住宅地造成の遠望のもとに推進されていたのだ。