(つくば市政展望-292) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

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第一回の市長選挙は1988年1月10日に告示される。前年の11月30日に4町村合併でつくば市が発足し、12月4日に筑波町がつくば市編入合併を申し入れてきているに関わらず筑波町を入れないで市長選挙が行われる。

常識的には大穂町と筑波町を県議選の支持基盤としている塚本育造県議が市長選挙に立候補するという意向が伝わると、アカは絶対に嫌いだけどピンクの塚本育造県議を市長にしては不味い、と少なくとも竹内藤男県知事と木村操谷田部町長は考えたのであろう。それに筑波町の町長が当時ピンクと見られていただけに5町村合併では塚本育造市長誕生が確実視された。

そして筑波町を外しても4町村での選挙となると桜村の倉田弘村長か、谷田部町の木村操町長が市長選有力候補となる、と見られていた。だが、木村操町長はここで出馬すると高野水道工事の思う壺に嵌まる。寝首を掛れると判断する。なんと言っても、四つ脚門も無い、町長選挙で野村文雄候補に追い上げられ町内投票数の過半数を獲得できなかった。門の無いことは地域の統治能力に欠ける部分があると見られている。それは何も知らない大票田の学園地区に浸透しないことであり、そこを突いてあの高野水道工事の野郎、再び野村文雄候補を担ごうと画策している。それでは落選必死だ。今回は倉田弘村長を担ぐしか無い。苦渋の決断を木村操町長はする。町長選挙でカネを使い過ぎての断念だろうと両高野を中心に囃し立てられたが、資金は充分あったのだ。竹内藤男県知事から学園地区にはぶてないだろうと注意されていた。あそこの住民は直ぐに警察にチクるから用心だ。それ以上の用心は野村文雄候補擁立に動く高野水道工事の動きだ。