谷田部城は落城する(つくば市政展望-249) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

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名城として名高い会津若松の鶴ヶ城だが、戊辰戦役で落城する。城跡は残っているが、残照に過ぎない。

明治新政府は、会津若松への厳しい施政を貫徹し、それは今日に至っている。明治から大正に至って幕藩体制下20万石以上の城下町には、高校、高専など国立の高等教育機関を設置した。その影響は昭和から平成に至って、会津若松市には国立大学は設置されずにいる。

徳川幕府に殉じて、明治新政府に盾突いた、という一点は子々孫々まで悪影響を受けている。

その会津若松城から見ると、細川藩の由緒ある城下への平成から令和へ至る政権側の冷たい意向が見えてくる。

江戸英雄、竹内藤男に、沼尻民平町長が抗したからではない。東京の政府は、恐らく大蔵省の頭深くに国家の一大プロジェクトに反抗した太い奴、というイメージを定着させたのではなかろうか?

沼尻民平町長は確かに太い奴、骨のある地方政治家であった。由緒ある細川藩の城下町を死守せんと抵抗した。だが、その結果は旧谷田部町うちの通り、江戸時代からの古い通りは猫一匹歩かない通り、城下街と化した。

その一方、谷田部町を崩壊させて木村操氏の墓前は人通りの絶えない通りに発展している。栄枯盛衰は旧谷田部町内に厳然と表現されている。