無神論者は信仰心のある人を、さして差別化しないが、どうも宗教人は無心論者を差別化しているような意識を感じる。
宗教人は無神論者に「論」をつけているが、信仰心の薄い人は「無神」でもなければ、かくべつの「論」を持っているわけでもない。なぜなら「論」など持たなくても、そこそこの信仰心は持てるからだ。
「格別の信仰を持つ者」こそ、自分自身を納得させるためにも、他に対抗するためにも「論」を持たざるを得ないのではないか!?
自分達が理論武装する傾向にあるので、相手もそうだと勘違いして、無神「論」者などと特別な名前をつけてしまうのではないだろうか?
そもそも、私達のように、格別に強く神を信じていない者は、「論」を語る必要性はないのだ。私達は、普段は「神の存在」など、どうでもいいことなのだ。強いて言うなら、「宗教人の神を信じきっていることが不思議でならない」だけ。「論」を言わざるを得ないハメになっているのは宗教人のほうだろう。私達は、その論に対抗する時に、論を出さざるを得なくなる。
私達に無神論者と「論」をつけることが「論」的な思考をしている証ではないか?私達は、信仰心の厚い人と対峙する時以外は、自分達のことを無神論者とは思っていない。それに、私達は、信仰心のある人に、信仰「論」者などとも言わない。なぜなら、彼らの「論」は私達からするとかなり曖昧だから、彼らの論に期待はまったくしていないからだ。
私達は それなりに神を信じている「そこそこ信者」とも言えるのに、宗教心に熱い人からは「無神論者」という、かなり明確なレッテルも貼られてしまう。これはどうしてなのか? 信仰心のある人たちの排他的な思考が見える。
このようなことを考えて、私は、この「決め付け思考」「排他的」な思考の傾向が、「ゆるぎない信仰心」を作り出しているのではなかろうかと、思ってしまう。
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信仰のある人=宗教人は、神とばかり語っているようで、生身の人間と語っていない感じを受ける。俗に言う「オタク」に思える。
さまざまな人の営みで社会が成り立っているのに、それらを神に関係付けているために、現実的な社会感覚が希薄になってしまっているのだと思える。彼らの目の前にいる人が、彼らにはぼんやりとしか見えていない気がする。
信仰心がある人が語るとき、現実が幻想の世界のように見えている語り口に思える。
多くのことに対して、「神のご加護」という事柄を考えるのはいい。なぜかというと、感謝する人が多くいることは心を豊かにするから。しかし、神に感謝するあまりに現実の両親や恩師や兄弟、そして近所のおじさんおばさんなどなどに対すして、感謝が薄いというか、一派一からげのような扱い方をしているような感を受ける。
親や兄弟や夫婦や恋人関係の中にも「神」を入れるために、それが起こるのだろう。
そんな神に対しては、私は、まったく「でしゃばり神」としか思えない。
とにかく、
神への信仰を否定はしないが、「神を介在させ過ぎではないのか?!」と思わずにはいられないことが多い。
何もかも神の縁(よすが)にしているわけだから、そうなるのだろうが・・・、なにか、信仰心があるせいで、現実の風雨を感じられないことが起きているのではないかと、思わずにいられない。