宇宙に果て?
ハテハテハテ、、ハテナ?

ウチュウが終わったら、エチュウがあるんです。
エチュウが終わったら、オチュウがあるんです。
オチュウが終わったら、カチュウがあるんです。



パカチュウが終わったら、ピカチュウがあるです。
ピカチュウが終わったら、プカチュウがあるんです。


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どうか、お願いします。
私に、「エチュウってなに?」と絶対に聞かないでね。
聞いてきたら、「宇宙って何?」って聞き返さざるを得なくなるからね。


そして、まだ、

「宇宙に果てってあるの?」って、聞いてきたら、

僕は、「君は宇宙とは何かを知っているのか?」と聞きかえさなければならない。

知らなければ問えないからね。




世界には賢者は少なく愚か者は多い。


そのような世界で多数決を行えば、結果は愚かな結果となる。


と、そんな「多数決の悲劇」が語られて久しいのに、

今、人類は(選挙や決議において)その多数決に舵を任せている。



余談:多数決のない組織が大躍進する。



どんな宗教も、自己の教義での普遍的を求めているのに、現実には多様な教義が世に出回っている。


宗教人って、己の足元というか、現実の姿が見えていない?


「みんな同じ色のパンツを履こう!さすれば、ウンヌンカンヌン」と言っているのに、その現実は、宗教ごとに、差を生み出し、みんな違うパンツを履いている。
普遍的でないのは、宗教自体なんですよねぇ~。

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しかし、この滑稽な環境を逆手にとって、したたかなのが宗教ですね。


宗教法人は、それぞれに自己の存在を声高に語り、さまざまな宗教が乱立できる環境を、協調して作っている。

もしも、他に宗教がなかったら、ここまで声高に叫べるでしょうか?


結果的に、宗教法人の協力体制が暗黙のうちに作られている。


いやぁ~、したたか、したたか。。。
たいしたもんです。










人は何を考え何を思っても良い。だがしかし、一人の人の言うことに整合性がなかったり矛盾があるなら、その人の話には偽りがある可能性がある。

整合性がないことを言えるということは、本人も、それに気がついていない場合がある。

だが、ノラリクラリと逃げるなら、本人は自分の話がおかしなことを知っている。


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本音でないきれいぼとの対話は空しい。

人は 窮場で本性を現す。なので、人の本音を探りたいときには、窮地に追い込むのも、その方法。


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話が 脱線したとは言わずに複線になったと思おう。

この宇宙では、一つのことは総てに繋がり、総てのことは一つに繋がっている。

この地球も、地球に住む人間も、それから逃れることはできない。

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 議会制民主主義の有効性は、多くの優れた脳(叡智)を集め議論し解を求めるという優れたシステムであるわけですよね。なのに他の脳を排他的に扱う人間が、そのような議論の場には多くでてくる。なぜ出てくるのか?

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独善的・排他的な発言者の問題は、近代民主主義とはまったく違った次元の話です。

彼らは、脳(思考)と動物的本能とが分離できていないのしょう。
オスは排他的な行動に出ます。その様な本能に脳が支配されているのでしょう。排他的なのは当然となります。

彼らは人間もどきですから、人間として振舞わないとまずいわけで、言葉の羅列として「民主主義」使いますが、意味を理解していません。というより、彼らにとっては民主主義は都合の悪い環境そのものなのです。
しかし、彼らは議論の場に出てくる。なぜか?
それは、その場こそが持論を言い放てる場だからです。結果、他者の意見なんか聞かない。対話に関係なく持論はぶちまけるという現象が起きますね。
こう考えると、彼らの行動が不思議も疑問もなくなるでしょ?w
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ちなみに、彼らにこのことを言っても無駄です。
彼らには、都合の悪いことは耳の穴にも入らない。
私達は彼らのこの傾向が伝染しないように防衛するために、彼らが現れたら、その「おかしさ」を顕著にするしかないのです。
 

 ところが、ところが、元々、似たような思考をするメスもおり、彼女らは議論より、思考的な性交を求めることに楽しみをもっているメスなので、交わりたがります。つまり防ぐことは無理です。(現実のオス・メスのことではないです。)

さらにオスは、バカにされてもメスを獲得できればいいので、何度でも恥ずかしげもなく現れるのです。


彼らを発見する方法は、簡単です。
だいたい正当な議論を嫌がります。
当然ですね。持論が崩壊していることが明白になるからです。
なので、トンチンカンな返事が出来てきたら、彼らは議論の有効性など期待していない人間と分かります。


  学者というのは、金より知を求めるので、「地球上の学者には地球上の一点に収束する力が働く」のだと思います。
で、その一点はどこになるかが問題なのですが、当然、学者達は優秀な脳との交信を求めているので、優秀な脳が存在している場に収束するわけです。

ところで、仮に、日本政府が国策として金を積んで日本に優秀な脳を招致しても、日本に世界の学者が収束することはない、すなわち不可能だと思います。その理由の一つは、言語が大きく関わっているからでしょう。

その他、さまざまな要因もあり、その一点の地とは、アメリカになっているようです。それも西海岸ではなく東海岸。なぜならヨーロッパに、ひとっ飛びですから。つまり、日本にブレーンが集合しないのは、地理的にも日本は無理ということがあるからです。

すなわち、日本の研究機関や政策が間違っていたり、劣っているために、日本の頭脳が外国に出て行っているのではなく、頭脳が地球上の一点に収束しており、かつ、その地は日本ではないので、そこに日本政府も頭脳を送り込んで国益を得ているのだと思います。

日本の教育が劣っているとはいえないかもしれません。

ハイデガーの「存在と時間」について書いてあるサイトの下に添えた引用部分を読むと・・・


人間は、いろいろと欲しがり、欲しがるものが「ない」ときにこそ、人はその存在を強く認識する性質(クセ)があるようだ。

たとえば、トイレに駆け込みたいときにトイレがないときトイレは強く認識される。

トイレに入っても、用をたしたあとに紙がない場合、紙を強く認識する。

その最たるものが「万能の神」である。「万能の神」がいれば、鬼に金棒であるから人々は神を強く欲しがる。最高の存在を欲しがるのに「いない」ので、神は最高の存在として強く、人間には認識されることになる。

こう考えると、神こそ、人間の最たる道具の可能性がある。

----- 引用 ----------
http://yamatake.chu.jp/03phi/1phi_a/2.html
「~のための」という道具的存在性は、普段、表だって意識されることはなく、壊れて使えない時や、必要なのに見あたらない場合だけ意識されるものだ。水を飲みたいのにコップが無い場合であれば、コップが水を飲むために必要な道具として意識されるし、家を修理したいのにハンマーが壊れていれば、ハンマーは釘を打つための道具として強く意識されることになるだろう。コップがあれば、あるいはハンマーが壊れてなければ、ほとんど何も考えずにコップで水を飲むだろうし、ハンマーを手にとって釘を打つはずだ。その時、道具的存在者の「~ための」という道具性は、ほとんど自覚されないのである。
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無神論者は信仰心のある人を、さして差別化しないが、どうも宗教人は無心論者を差別化しているような意識を感じる。

宗教人は無神論者に「論」をつけているが、信仰心の薄い人は「無神」でもなければ、かくべつの「論」を持っているわけでもない。なぜなら「論」など持たなくても、そこそこの信仰心は持てるからだ。
「格別の信仰を持つ者」こそ、自分自身を納得させるためにも、他に対抗するためにも「論」を持たざるを得ないのではないか!?
自分達が理論武装する傾向にあるので、相手もそうだと勘違いして、無神「論」者などと特別な名前をつけてしまうのではないだろうか?

そもそも、私達のように、格別に強く神を信じていない者は、「論」を語る必要性はないのだ。私達は、普段は「神の存在」など、どうでもいいことなのだ。強いて言うなら、「宗教人の神を信じきっていることが不思議でならない」だけ。「論」を言わざるを得ないハメになっているのは宗教人のほうだろう。私達は、その論に対抗する時に、論を出さざるを得なくなる。

私達に無神論者と「論」をつけることが「論」的な思考をしている証ではないか?私達は、信仰心の厚い人と対峙する時以外は、自分達のことを無神論者とは思っていない。それに、私達は、信仰心のある人に、信仰「論」者などとも言わない。なぜなら、彼らの「論」は私達からするとかなり曖昧だから、彼らの論に期待はまったくしていないからだ。

私達は それなりに神を信じている「そこそこ信者」とも言えるのに、宗教心に熱い人からは「無神論者」という、かなり明確なレッテルも貼られてしまう。これはどうしてなのか? 信仰心のある人たちの排他的な思考が見える。

このようなことを考えて、私は、この「決め付け思考」「排他的」な思考の傾向が、「ゆるぎない信仰心」を作り出しているのではなかろうかと、思ってしまう。

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 信仰のある人=宗教人は、神とばかり語っているようで、生身の人間と語っていない感じを受ける。俗に言う「オタク」に思える。

さまざまな人の営みで社会が成り立っているのに、それらを神に関係付けているために、現実的な社会感覚が希薄になってしまっているのだと思える。彼らの目の前にいる人が、彼らにはぼんやりとしか見えていない気がする。

信仰心がある人が語るとき、現実が幻想の世界のように見えている語り口に思える。


 多くのことに対して、「神のご加護」という事柄を考えるのはいい。なぜかというと、感謝する人が多くいることは心を豊かにするから。しかし、神に感謝するあまりに現実の両親や恩師や兄弟、そして近所のおじさんおばさんなどなどに対すして、感謝が薄いというか、一派一からげのような扱い方をしているような感を受ける。
親や兄弟や夫婦や恋人関係の中にも「神」を入れるために、それが起こるのだろう。

そんな神に対しては、私は、まったく「でしゃばり神」としか思えない。
とにかく、
神への信仰を否定はしないが、「神を介在させ過ぎではないのか?!」と思わずにはいられないことが多い。
何もかも神の縁(よすが)にしているわけだから、そうなるのだろうが・・・、なにか、信仰心があるせいで、現実の風雨を感じられないことが起きているのではないかと、思わずにいられない。




無神論者は信仰心のある人を、さして差別化しないが、どうも宗教人は無心論者を差別化しているような意識を感じる。

宗教人は無神論者に「論」をつけているが、信仰心の薄い人は「無神」でもなければ、かくべつの「論」を持っているわけでもない。なぜなら「論」など持たなくても、そこそこの信仰心は持てるからだ。
「格別の信仰を持つ者」こそ、自分自身を納得させるためにも、他に対抗するためにも「論」を持たざるを得ないのではないか!?
自分達が理論武装する傾向にあるので、相手もそうだと勘違いして、無神「論」者などと特別な名前をつけてしまうのではないだろうか?

そもそも、私達のように、格別に強く神を信じていない者は、「論」を語る必要性はないのだ。私達は、普段は「神の存在」など、どうでもいいことなのだ。強いて言うなら、「宗教人の神を信じきっていることが不思議でならない」だけ。「論」を言わざるを得ないハメになっているのは宗教人のほうだろう。私達は、その論に対抗する時に、論を出さざるを得なくなる。

私達に無神論者と「論」をつけることが「論」的な思考をしている証ではないか?私達は、信仰心の厚い人と対峙する時以外は、自分達のことを無神論者とは思っていない。それに、私達は、信仰心のある人に、信仰「論」者などとも言わない。なぜなら、彼らの「論」は私達からするとかなり曖昧だから、彼らの論に期待はまったくしていないからだ。

私達は それなりに神を信じている「そこそこ信者」とも言えるのに、宗教心に熱い人からは「無神論者」という、かなり明確なレッテルも貼られてしまう。これはどうしてなのか? 信仰心のある人たちの排他的な思考が見える。

このようなことを考えて、私は、この「決め付け思考」「排他的」な思考の傾向が、「ゆるぎない信仰心」を作り出しているのではなかろうかと、思ってしまう。

私達は私達の経験を通して認識している。
私達は様々な物を作る。建物も庭も器も運河も・・・・。
その経験を通して、私達は、、
山を見ると「山を作った者」を想像(創造)する。
海を見ると「海を作った者」を欲しがる。

私達は弱い存在
弱いから救いを求める。
言葉を欲する。
その求めに答える存在を創造する。

私達は自由でありたい。
どんな迫害からも自由でありたい。
どんな権力者よりも優れた存在を内に秘めることで
どんな権力者にも屈することはなくなる。

人間の脳の無意識の領域から、意図せずに優れた思考が出てくる。
それは、何者かの啓示と思わずにはいられない。


臆病な人間は、神を疑うと天罰が下ると予測してしまい、怖れから、神の存在を疑うことが不可能になり、結果、神の存在は確固となってしまう。

こうして、
様々な認識を持った人間には必然的に神が誕生する。