世界(時空)は無限なのに私たちは死んじまう。


私たちは、それを受け入れられないのかもしれませんねぇ~。
受け入れるために、受け入れる正当な理由を探しているのかもしれません。

私たちは、当然に自己存在を知ったときに、自己存在の消滅(死)を知ってしまうわけなので、自己存在を感じたときに、同時に「死の受け入れ作業」を始めたのかもしれません。

世界(時空)、自己存在意識が、哲学の中で大きなウエイトを占めているのはこのせいなのでしょう。

「人間、みんな死んじまうのさ!」と、死を、その死の事実だけで受け止められる人には、哲学的な思考はないのでしょう。が、そういう人は、いるようでいないので、たぶん、人は皆、程度の差はあれ哲学者なのでしょう。





 「私たちはなんなのか?」と考えるときに、「人間とは?」という考え方をすること自体が、視覚的思考から逃れられず、生物学的な区別を求めてしまっています。「人間とは?」とは問わずに、「私たちとは?」と問うべきなのでしょう。 考えるときに「人間」という既成概念を外すことは、真っ先に必要です。「人間とは?」という「問い」自体にドツボ(思考的袋小路)があります。

かのハイデガーも、自分達の存在を考えるときに、「現存在」として存在を求めました。それは、問い自体が作り出す束縛から逃れるためでしょう。


  「私たちは、すでに意識存在であるにも関わらず、私たちは、ハッキリとそれを知らない。自覚がないが故に戸惑っている。」わけです。


 私たちは自分を「人間」と呼ぶと視覚的思考によって、人間の姿が見えてしまい、それは、生物学的な区分けなので既存の知識でことたります。


 新たな概念に触れるときなので、惑わないために、もう「人間」とは呼ばずに、「意識存在」と呼び考えます。


 意識存在として考えるのですから、人間以外の生物種の脳に意識存在が出現しているのならば、それは同じ種と考えるべきなのでしょう。


 意識存在という区分けで考えればイルカも犬もサルも人間も同種であるから。もはや人間というカテゴリーの考え方を捨てなければ、未来に、意識を持った機械が出現したときにも戸惑うでしょう。


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 ところで、意識存在は「他」に想われることで出現するというものがあります。つまり、想われることがなくなれば消えるし、想われれば出現する。これは、時間的にも意識存在が出現したり消滅する可能性を意味します。そして、それにより、個体的には区分けできないことを意味します。

 それに、一度、出現した意識存在は、あらゆる手を使って存在しようとします。想われようとします。

たとえば、忠犬はち公ですが、想うことで想われが記憶をもって存在したと考えられます。つまりハチ公も意識存在であった。人間に宿った意識存在もハチ公と同じことをしますね、墓参りとか。


 意識存在の存在原理を考えると、イルカの殺しは、やめなければいけないかもしれません。なぜならイルカも意識存在なので、あるイルカを殺すと他のイルカも殺すことになり、さらには、その種全体に消滅の恐怖を与えるから。


 もう一つ言えば、ある意識存在を殺すと、その意識存在に想われて生きていた意識存在の存在も危うくしますので、本来なら、殺された被害者の遺族は、被害者遺族ではなく「被害者」と呼ばれなければならないのも、意識存在の法的な考え方です。


このように、意識存在という考え方をすると、いろいろな見方ができます。

さらに考えれば・・・・


「意識が宿っているかいなかはどう知る?」という疑問が出ますが、その方法を私は知りません。というか、意識存在かどうかを区別することが、この意識存在には害になる場合があります。
 意識存在の存在は「他」によって存在しますので、仮に「偽りの意識存在」によって存在している「意識存在」がいれば、偽りであろうがなかろうが、その意識存在は大切になるからです。(神とかスターとか・・・)


 意識存在である私たちが、さまざまな偽り物に騙される存在であることもこのせいです。というか、強いて騙されて強い存在を求めてやまない人々が多いことも、私たち意識存在の顕著な性質です。

私たちは、自ら、自らを照らす存在を作り出し、その存在によって存在しようとしているわけです。




  現世での存在を大きく分けると、エネルギー、半物質、物質、生物、意識となるだろうか?
エネルギーとは差によって生じたと言って良いかもしれない。生物を物質の頂点として物質に含めてもいいが、とりあえず生物とする。その生物の脳(コントロール臓器)に宿った存在が「意識存在」。

意識存在の誕生、それは無から物質が生じたごとく、生命コントロール装置の中に生じた存在。

しかし、意識存在は肉体に宿ったので、肉体の宿命から逸脱してはいない。それを考えれば、私たち人間は、物体存在と意識存在の複合存在とも言える。
いや、私たちは、エネルギーの存在でもある。つまり、私たち人間は、この宇宙の誕生からのすべての存在を所有している。そして、それらの制約をも、すべて受けている。

 私たち人間は猿から進化したので、移動と視覚に優れた種。そのために移動視覚的に優れた脳を持ち、その脳のおかげで、ほとんどの現象を視覚的に処理し、時間的に処理する(時間感覚の所有)。
意識は見えないが、それを見えるように処理するために、表情や身振りや踊りやえ絵画や映像に現象を置き換える。しかし、私たちの本質は目には見えない意識存在。

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 ある環境で強者となり環境に適応した種は、その環境に残ることが出来た。が、その一方で進化を止めた。すなわち、人間という進化の頂点にいる存在となり、意識存在にまで進化した人間は、実は、どの環境にも適応できなかった種と、言えなくもない。あるいは、あえて他の環境を求めて、結果、大進化した種とも言える。


 私たちは、すでに意識存在であるにも関わらず、私たちは、ハッキリとそれを知らない。自覚がないが故に戸惑っている。






小説も道具。

人は道具を使って様々な試みをする。

絵や図や画も道具。
音楽も道具。

道具は、人によって様々なことに使われる。

世界を作る道具、自己満足の道具、自分を知るための道具、他者に自分の世界を知らせる道具、他者を楽しませる道具、金を儲ける道具、時間を消費するための道具などなど、使い道が多いものが道具でしょう。

人にとって、書き物も、様々な書き手の様々な道具になっている。
ある人が書いた書き物は複合的な道具になっていることが多い。
つまり、
多様性、複合性が書き物がなんたるかを分かりにくくしている。
が、
書き物は道具。

ということで、
まだまだ新たな道具としての書き物が現れる可能性もある。

道具としての新たな機能を生み出すための道具にもなっている。

実は、道具作りをしている作業でもあるわけですねぇ、物書き作業は。


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そう、
小説はとんでもない道具。


具体的に(おもしろくなく)言えば、小説は「現象を扱う道具」。
人間に起きる現象を扱う道具なので、その道具は使ううちに自動的にとんでもない道具になる。


「小説は、とんでもない道具」


人間の物理的な現象=精神的現象(心的現象)が巻き起こす連鎖現象=脳の中の現象=深遠で隔たりの曖昧が故に無限に感じる世界、、、を扱う道具。


そのような道具であるがゆえに、道具という概念は似つかわしくなくなるが、それは道具を「大工道具」のような道具と位置づけて考えるから感じてしまう感覚で、ならば、「とっても優れたヘンチクリンな道具」とでも言えばいい。


ところが、
人というもの自体が、精神世界の産物なので、この小説という道具自体が新世界(あいまいもこな世界)となって作者の前に広がるので、やっかいにも道具を作って使っている作者をも変質させてしまう。


まあ、道具というものはそういう性質がある。
核という道具を手に入れると、その核によって人間世界が変質してゆくように。










 

 九電のやらせメールについて騒いでいるが、本来、営利企業が自己に有利な行為をすることは当然ありえるのに、その視点がなかったことのほうが異常。

つまり、
経済産業省が6月に県民向けの説明会を開いた際に、九州電力が一般市民を装い再稼働に賛成する意見を電子メールで説明会に送ると考えるのが普通なのに、それを考えずに、原発再稼動賛成メールを一般市民の意見として取り上げていることに、きな臭さがある。

つまり、もっと普通に推測すれば、
経済産業省も、やらせメールの仲間だと考えるのが普通でしょう。


コメントの削除もひどいが、スレッド全体の削除は、おそろしい。。
人への誹謗中傷よりもひどいかも。。
抹殺だもんねぇ~~~。。
どこの何が消されたのかも分からないときたもんだ・・・。
ま、消えちまえば、死人に口なしに似て、おとなしいくなる?
だから、その削除行為が、おそろしいのだ。

目には歯をか?
ちょっと、大義名分の錦の旗の下、やりすぎじゃぁないでしょか?!


人間、自分の体が病んだら医者に診せて、必死に治そうとする。日本人の貯蓄率が高いのは、老後の医療に備えてなのだろう。福祉が充実している国では貯蓄率は低いらしい。
とにかく、人間は、なぜ自分の体の病を大金をかけてでも治そうとするのか?
それは、自分の体という生命維持装置が壊れたら、自分が消滅してしまうから。
人間は、自分の消滅を知っているので、自分の消滅を恐れる。

つまり、「人間は、他者の消滅が自己の消滅に繋(つな)がるなら、人間は他者を攻撃しない。」核の脅威によって平和の均衡が保たれたのは、この仕組みのせい。
この仕組みがない世界、すなわち、たとば、国で言えば、自国だけで生きようとする国家は、この仕組みから逃れようとして、結果、不安定な世界情勢を生んでしまう。

互いが互いに深く関係しあう世界、そして、その関係性が平和には必要だという理論を知りえる知能の所持が、悲しいことが起こりにくい世界だろう。

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このことを、遠まわしに、深く説明している小説に、芥川龍之介の「クモの糸」や「羅生門」がある。


  原発の普及(必要性)は、エネルギーの必要性から生まれているだけではなく、それより、むしろ原発の商品性(金儲け)から生まれていると考えることは、事実を見る上で大切なことでしょう。

たとえば、自動車の普及の理由には、便利だからということもあるでしょうが、自動車の商品性、すなわち儲かるということがその理由にあります。

自動車という商品は、便利だから売れ、よって儲かりますが、もしも自動車が起こす事故や、社会への悪影響、エネルギー消費、SO2の排出、そして公害など、社会へのリスクを自動車の価格に上乗せしたら、たちどころに自動車の商品性は失われます。

原子力発電という商品も、膨大なリスクを商品価格に反映させたら、その商品性は失われます。

では、なぜ?自動車も原発も、その悪影響やリスクを商品価格に含めていないのか。それは、本末転倒で、商品性を維持するためだからでしょう。そう考えると、原発推進国は、とんでもないことをしていると分かるのではないでしょうか。

つまり、社会へもたらす悪影響リスクは、広く人々、すなわち私達が背負っているということになります。これは、過去に起きた戦争という愚行に似ています。リスクは広く人々が背負う。背負わされた人々は、自分だけはリスク回避が出来ると妄想し、戦争に反対ができない。

歴史の中の愚行は、いつも形を変えて行われるようです。


さて、


 原発がメルトダウンして、膨大なリスクが生まれ、東電という有限責任の株式会社が倒産したら、膨大なリスクは国、すなわち国民である私達が背負うことになります。それ以前に、リスクは国民が被爆という形で、すでに背負っていることは、忘れてはなりません。

国がリスク保障するにしても、東電がこれからの価格に原発の商品である電気料金にリスクを反映させても、メルトダウンのリスクは、私達が背負うのです。それよりも、最大のリスクである被爆という私達の意識が宿っている身体が崩壊するリスクは、すでに背負っています。

こう考えてみると、見えてくるものがあります。

原発推進の人たちは、原発の商品メリットにあやかれる者たちであり、原発反対の人々は原発のリスクを背負わされていることを認識している者たちであり、原発に対して反対も賛成もしていない人々は、金儲けにもあやかれず、さりとてリスクを背負っていることも認識できない無知な人々である、と見えてくるのではないでしょうか。



「孔子は、『修身・斉家・治国・平天下』という順番で社会秩序は確立されると考えていた」とは、なるほど。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo013_2.html

これ、組織論的に言っていると思います。各国(世界)の中には国家があり、国家の中には様々な組織があり、さまざまな組織の基本に家があり、その中に人がいる。これ、ある意味、組織の多重構造なのですが(複合組織でも同じでしょう)、どの組織においても観点が一致していないと不和が生じるという、すばらしい説話に感じます。

なぜなら、国家の中にある家での人間関係を壊す思想は、国家を成立させないからです。人間の体の細胞が放射能で壊れれば、人間も壊れるように・・・。
つまり、孔子は「国家の基本である家とか個人を、国家が否定すると、国家は滅びるでしょ?」ということであり、国家は、内部組織の親にはなれないという意味があると、私は、捉えました。

これまで、国会での原子力安全に関しての答弁で「原発は絶対に安全だ」と語っていた以下の連中が、昨日6日の国会で、「自分達の過去の甘い判断による間違い」と認めた。


しかしながら、本人達は、自分達を「間違った人間」と言い張っているが、彼らは、「安全な原発」の妨害者だ。


その地位にいて、安全運行を求める人々の口を塞いだわけで、安全施設の設置、見直し、運行などの妨害者であるはず。

またもや、こいつらの発言に騙(だま)されるのか?
こいつらの発言は、常に、自らに対して甘い。

原子力安全・保安院院長の寺坂信昭
原子力安全委員長の班目春樹
前原子力安全委員長(現・日本原子力研究開発機構理事長)の鈴木篤之