「私たちはなんなのか?」と考えるときに、「人間とは?」という考え方をすること自体が、視覚的思考から逃れられず、生物学的な区別を求めてしまっています。「人間とは?」とは問わずに、「私たちとは?」と問うべきなのでしょう。 考えるときに「人間」という既成概念を外すことは、真っ先に必要です。「人間とは?」という「問い」自体にドツボ(思考的袋小路)があります。
かのハイデガーも、自分達の存在を考えるときに、「現存在」として存在を求めました。それは、問い自体が作り出す束縛から逃れるためでしょう。
「私たちは、すでに意識存在であるにも関わらず、私たちは、ハッキリとそれを知らない。自覚がないが故に戸惑っている。」わけです。
私たちは自分を「人間」と呼ぶと視覚的思考によって、人間の姿が見えてしまい、それは、生物学的な区分けなので既存の知識でことたります。
新たな概念に触れるときなので、惑わないために、もう「人間」とは呼ばずに、「意識存在」と呼び考えます。
意識存在として考えるのですから、人間以外の生物種の脳に意識存在が出現しているのならば、それは同じ種と考えるべきなのでしょう。
意識存在という区分けで考えればイルカも犬もサルも人間も同種であるから。もはや人間というカテゴリーの考え方を捨てなければ、未来に、意識を持った機械が出現したときにも戸惑うでしょう。
-------------
ところで、意識存在は「他」に想われることで出現するというものがあります。つまり、想われることがなくなれば消えるし、想われれば出現する。これは、時間的にも意識存在が出現したり消滅する可能性を意味します。そして、それにより、個体的には区分けできないことを意味します。
それに、一度、出現した意識存在は、あらゆる手を使って存在しようとします。想われようとします。
たとえば、忠犬はち公ですが、想うことで想われが記憶をもって存在したと考えられます。つまりハチ公も意識存在であった。人間に宿った意識存在もハチ公と同じことをしますね、墓参りとか。
意識存在の存在原理を考えると、イルカの殺しは、やめなければいけないかもしれません。なぜならイルカも意識存在なので、あるイルカを殺すと他のイルカも殺すことになり、さらには、その種全体に消滅の恐怖を与えるから。
もう一つ言えば、ある意識存在を殺すと、その意識存在に想われて生きていた意識存在の存在も危うくしますので、本来なら、殺された被害者の遺族は、被害者遺族ではなく「被害者」と呼ばれなければならないのも、意識存在の法的な考え方です。
このように、意識存在という考え方をすると、いろいろな見方ができます。
さらに考えれば・・・・
「意識が宿っているかいなかはどう知る?」という疑問が出ますが、その方法を私は知りません。というか、意識存在かどうかを区別することが、この意識存在には害になる場合があります。
意識存在の存在は「他」によって存在しますので、仮に「偽りの意識存在」によって存在している「意識存在」がいれば、偽りであろうがなかろうが、その意識存在は大切になるからです。(神とかスターとか・・・)
意識存在である私たちが、さまざまな偽り物に騙される存在であることもこのせいです。というか、強いて騙されて強い存在を求めてやまない人々が多いことも、私たち意識存在の顕著な性質です。
私たちは、自ら、自らを照らす存在を作り出し、その存在によって存在しようとしているわけです。