「宮城・南三陸町で1万人行方不明…県が発表」 ああ一つの地域で・・・。1万7千人の町で、1万人が・・・。 もしかすると、、大変な数に・・・。

 地震後の津波の恐怖を語った「稲むらの火(いなむらのひ)」という物語がある。小泉八雲の作品らしい。戦前の教科書には掲載されていたらしい。

なんと、2011年度より、再び、日本の小学校教科書にて掲載されることになっていたとか・・・。遅いんだよぉ~。

なんで、もっと全国的な物語にしなかったんだ。

津波を外国では「つなみ」と言うらしい。それほど日本は津波の多い国。

津波の恐さをもっともっと知らせるべきだった。

          ****  稲村の火 ***

       http://www.bo-sai.co.jp/inamuranohi.htm

  「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。

 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

 村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。


一つ目は、人間よりも優れている存在を「神」と呼んでいるのに、その存在を人間が証明するなど、何か滑稽です。

二つ目は、世界にはたくさんの神がいるのですから、その一つ一つの存在証明を行うことなど可能なのでしょうか?

三つ目は、これほど多くの人に「神」が語られるのに、その存在を問うのも、これまた滑稽です。

四つ目は、神の存在証明をして、なにをするのでしょう?

五つ目は、神の存在を問うより、問う自分を見つめたほうが「神」を知るには近道かもしれません。

存在とはなんぞや。

物的な存在の仕方で存在しているものもあるだろう。心的な存在の仕方で存在しているものもあるだろう。また、まったく未知な存在の仕方で存在するものもあるだろう。

存在とは?

分かりやすい存在に、石や山や雨や花などがある。もちろん生き物も存在。人間の意識も存在するものというのも、疑う者はいないだろう。

それら存在する事物を見て、存在とは何かは分かる。
私達は石につまづく。雨に当たれば冷たく濡れる。山には登れ、時に人の心の中にその雄姿を見せる。私達はかつて花を食し、今、花を愛でる。
存在とは、私達に何らかの影響力があるものと考えてよいのではなかろうか?

人の心は人の心を動かす。人は人に影響を相互に与え合い、それによって存在している。

人に、これほどまでに多大な影響を与える「神」の存在を疑うことのほうが、おかしいとは思えないだろうか?
私達が万能の慈悲ある存在者を望んだときにその存在を、心の中に得たということはないだろうか?そして、さらに無数の人の心の中に誕生した「万能の慈悲ある存在」が、多大に人類に影響を及ぼしているのに、その存在を無視できるのだろうか?

人類という精神的な存在にとっては、もはや、石や山や海や空や人よりも確かで確固な存在になっていることを疑うことはできない。
おそらく新たな存在の仕方で存在するものにあたるだろう。











 時間を用いないと記述できないので時間という尺度が誕生した。
その尺度は、もともと人間が自己を認識すると同時に獲得していたので、人間に世界が見え始めたと同時に時間という道具も手に入れていた。そのために時間が道具であるとは到底思えない。

 現在というのも実は、過去や未来と同様に、そのような存在ではない。
やはり人間が自己を獲得して「私」を知ったのと同時に「今」をも手に入れた際に、今を手に入れたことによって、当然、その前後をも感覚的に手に入れた。それが過去であり未来。

 存在と時間とは切り離せない関係にある。なので、自己が存在しているということと同程度の確実さで、現在も未来も過去も「ある」と、人は感じてしまう。
つまり、「私はいる」ということが確かであるなら「時間はある」とは言える。が、その時間は、「わたし」の存在と同じように観念なので、私達にの肉体がいる、この世界のような存在ではない。よって肉体は過去には行けない。

 自己獲得と空間認識と時間間隔は一つに繋がって獲得されている。なので、時空と存在については、切り離しては考えられないということになる。

 ちなみに物理量の時間は、少し考えてみると、単に、速度差に基づいていると気がつくはず。私が言うに及ばず。考えることができるならば。
つまり、時間は流れるように存在し、そこを行ったり来たりできるような存在ではない。人が外界を捉える際に使用している道具。道具としてはある。
その「ある」と、まるで過去があると言うがごとく、世界が存在しているような存在ではない。

絶対的な物事や普遍的な価値を求めることが間違えの元。

生き物の命に限らず、すべての「もの」は、そのもの自体に独立した価値はありえない。すべての「もの」の価値は、他によって決められる。

複雑で相対的な価値のありようが理解できないと、なにもかもが変に見えてくる。




とことん考えることでしょう。


つまり、なにかに帰結させる思考ではなく、どんどんと考える。





女性という生き物は、好きな男性の前で、けっして、「はしたない行為」はしません。口を大きく開けて口紅を塗ったり、マユをつり上げてアイシャドーを塗ったりなんて、ぜったいに、好きな男性の前では、しません。

私たちは、それを知っている。

なので、「はしたない行為、はしたない顔」をする女性がいたら、私たちはその女性から、自動的に「おまえたちは、私にしたらカスだよ。クソだよ」というメタメッセージを受け取ってしまいます。
それは、だれにとっても嫌なことでしょう。

女性の前で、無造作にオナラをすると女性はいやがります。それも同じ理由でしょう w

ということで、
化粧する女性には、オナラをひっかけてやりましょう w


「愛」とは、ただ単に「与える行為」のこと。


そう考えて「愛」に関して考えると「愛」が「与えること」だということがよく分かるよ。


「愛が欲しい」は「与えて欲しい」。


例で言えば、「愛人が欲しい」は、「与える相手が欲しい」、あるいは、「与えてくれる人が欲しい」。


お金持ちのおじさんは、自分の愛(与える行為)を受け止めてくれる人が欲しいというわけ。

マザーテレサは、あふれる愛(与えたい気持)を満たしてくれる場を求めたとも言える。

人には、「愛」に満ち溢れた人もいる。

ここでハッキリしておかないといけないことは、「与える」のは「物」だけではないということ。「事(行為)」や「心情」もある。

なので、「愛が欲しい」は、「僕へ気持をかけて」でもある。

ただ、心情のセンサーが希薄な人は、心情を示す代替行為を求める。「束縛」だとか、「縄」だとか「おしりペンペン」だとか「何をひっかけて欲しい」とかに発展?してしまう。。

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「与えて欲しい」という自分の気持が「愛」だと勘違いしている人が多いようだけど、「与えて欲しい」は「愛を求めている行為」でしかない。

けっして愛そのものではない。


愛と依存は往々にして癒着する。

依存は勘違いによって起きる。

相手の「愛」を求めていることが「愛」だと勘違いしてしまう。


依存者という者は、本来、自己本位の人間なので、自分に都合よく物事を決め付けている。しかも自覚がないので始末に悪い。そういう人間と苦楽を共にすると、えらい目にあう。


また、「愛」を強く求める依存者は、与えて欲しいために、「多くの言葉」を相手に発する。このとき、その相手が、その多くの言葉に対して勘違いして、「言葉を与えてもらっている」を依存者の「愛」と勘違いしてしまう人もいる。

つまり、依存者は、勘違いしやすい人間に寄生するとも言える。

ちなみに、
「博愛」は多くの人に気持や行為や物を「与える」こと。なので、見返りは求めないは当たり前。
見返りを求めることは「愛」の定義の中には存在していないので・・・。
もしも見返りを求めての行為なら、それは「愛」ではなく、交換行為とでも呼んだ方がいい。。。

ま、そんなとこ。






犬は走り回るのが好きそうですが、考えるのは嫌いみたいです。


猫は走り回るのはさほど好きそうではないみたいですが、どうも、考えるのは好きみたいです。


人間は、考えるのは好きそうですが、「考えること」について考えるのは好きではないみたいです。



犬は自らのことを考えるのが嫌いみたいです。


カラスは自らのことを考えるのは嫌いではないみたいです。


人間は自らのことを考えるのは嫌いではないみたいですが、自らの考えを考えるのは嫌いみたいです。




アリはとにかくウロウロと歩くことでエサを得る。行き当たりバッタリ。

人はシステム(生産とか商売)によって金銭を得て、金銭でエサを手に入れる。

人はシステム(生産とか商売)を考え出してエサを手に入れるのだけれど、考える段では、人はウロウロと行き当たりバッタリに考えている。

アリはエサの獲得の方法を考えては、いない。
人は考えに対して考えては、いない。

アリと人、似ている。



自分の動き(身体の動きにマツわること)を知らないアリは、己を知っているのだろうか?

自分の考え(脳の中の動きにマツわること)を知らない人間は、本当に己を知っているのだろうか?


人は己を知っていると思っているけれど、知っていると思い込んでいるだけなのかもしれない。
ほとんどのことを知らないのかもしれない。

アリと人とは大違いなのだけれど、実は、ほんの少しの違いなのかもしれない。
いまだ人が知らぬことを基準にしたら、アリと人間の知っていることなど、ほとんど同じなのかもしれない。