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喪中ハガキとブログへの感謝


 
本年も今日が最後となってしまいました。
記事を書こうと思いつつ、なかなか時間が取れないままナント大晦日!
もうこうなったら大掃除をストライキして意地で書いています(笑)
 
自分の記事は書いていなくても、他の人の記事を読んでコメントしたり、
ブロ友のゲスブで毎日の挨拶をしたり、何らかの形でブログと関わる毎日でしたが、
今年の11月に実生活のほうが大変になり、しばらくブログから離れていました。
 
親父のもろもろの相続や引継ぎ手続きに加え、喪中ハガキの準備もしなくてはならず、更に内職まがいで仕入れた品物の相場が値崩れし、大急ぎでサバかないと(売らないと)大損害という事態に…。
とてもじゃないがブログに関わっている時間は無い!と、ゲスブで話していたブロ友たちに一方的に休眠宣言をしました。
 
まずは喪中ハガキを早めに出さなければならず、裏に印刷するイラストのテンプレ探しから始めました。
親父は漁師だったので海をモチーフにしたものがないか必死に探しましたが、全く見つからず、やむなく水面に葉っぱが浮いている画像で妥協することにしました。
宛名の入力も終わり、いざ印刷を始めようというときに、やはり妥協したものでなく、親父のために納得したものを、無いなら自分で作ることにしました。

長年親父が乗ってきた船の写真を使おうと決めましたが、入院してからはずっと陸にあげたままだったので、海に浮かんでいる昔の写真を探す時間は無く、
漁師の廃業を決めて船が業者に引き取られていく時の(ドックのある港へ業者が自分で船を操縦していきました)写真を使うことに。
そして偶然パソコンに入っていたハガキ印刷ソフトを見つけ、試行錯誤をしながらどうにか作りました☆彡
 
イメージ 1

親父が永遠の海へ船出していくイメージになればと。。。

この喪中ハガキで親父の訃報を知った人たちから驚きの電話やお悔やみを送って頂き、御礼と共に、却って申し訳ないことをしてしまった気持ちにもなりました…。
ブログを休眠中も次から次と用事が湧いて、結局まともに片付いたのはこの喪中ハガキくらいで、ほとんどが未解決のまま、またブログへ戻ることにしました。
一週間程度の予定がひと月近く経っての復帰となりました。
 
ブログを離れている間も毎日思い浮かぶのは、ブロ友たちからもらった言葉と、
一方的につながりを断ったことの申し訳ないという気持ちでした。
 
 
親父の死後間もなく遺産の整理が始まると、かなりまとまった額の貯金や生命保険をかけていたことが分かり、
実際、親父は船の新造を我慢し(漁船の新造には家一軒建てる以上のお金が必要)30年以上も同じ船に乗り続けていました。
親父のそんな苦労あっての蓄えでしたが、それを知った時、嬉しいというより悔しいという気持ちで一杯になりました。
 
入院中、親父はよく家に帰りたいとこぼしていました。
でも自力で寝返りも出来ない体で家に来ても、却って辛いことになる。
痩せ細ってはいても大柄な親父を僕一人で動かすことも難しい。
「もっと元気になってから」などとごまかしたり、聞き流していました。
 
でも、もしそれだけの蓄えがあるのを知っていたら、家をバリアフリーに改築し、
24時間介護の人も雇ってやれた。
親父の好きな風呂にいつでも入れてやれただろうし、ベッドから「自分の海」を毎日眺めさせてやれた。
そんな環境の中でなら、親父の最期はどれほど幸せなものになったろう…
口惜しくて涙がこぼれました…
 
そう悔やむ僕をブロ友たちは慰めてくれました。
家族のためを思って必死に残したお金を、自分のために使っても親父は喜ばなかっただろうと。
その言葉にどれほど救われたことか。。。
 
約ひと月ぶりに自分のブログを開けると、ゲスブには僕自身が忘れていた誕生日を祝ってくれるコメントが入っていました。
 
此処には何よりも大切なものがある、そう感じた瞬間でした。
 
  
喪中ハガキとブログへの感謝・終

娘として


 
告別式でのことに触れておきます。
式も終わりの頃、親父の柩に参列者が花をくべてゆく場面で、姉の嗚咽が斎場に響き渡りました。
 
親父が亡くなって以降、親類や友人への連絡、葬儀の細かな打ち合わせに明け暮れ、お通夜の席でも時折鼻をすする程度で気丈に振舞ってきた姉ですが、
親父との本当に最後の別れが近づき、ついに耐え切れなくなったようでした。
上の叔父に「それじゃ兄貴が逝けないだろうがっ」と諌められても、
姉の絞り出すような泣き声は止むことはありませんでした…。 
 
 
姉はいわゆる、典型的な「お父さん子」でした。
僕は子供の頃から親父とは少し距離を置く関係でしたが、姉は親父のことが大好きで、加えて海も船も魚も好きで、男ならば間違いなく親父の跡を継いで漁師になったことでしょう。
親父も姉には甘く、時には馬鹿を言い合ったり友達のようでもありました。
それは大人になってからも変わることはなく、姉が結婚して家を出てからも
毎年の父の日には贈り物を寄こし、帰省すれば子供の頃のままに親父と親しげに話していました。
 
そんな姉ですから、親父の末期のすい臓がんのことはしばらくの間伏せておくつもりでしたが、年明けの腸のガンの摘出手術後、たまたま僕が席を外している時に、主治医から姉に末期がんのことを伝えられてしまいました。
以来、姉は約7カ月に渡る親父の入院期間中、嫁ぎ先の他県から200㎞以上の道のりを毎週のように車で通うようになりました。
(嫁ぎ先といっても姉夫婦と子供だけの生活です)
 
金曜か土曜の明け方に家を出て、そのまま親父の病院へ直行し、
実家(僕の家)は荷物が山積し、犬猫たちがいることもあり実家には泊らず、
隣町の高校時代からの友人宅に泊まり、日曜の午前中に親父の顔を見てから
自分の家に帰る、ということを繰り返しました。
僕も見舞いをしているのだから、そんな無茶は止めろと姉に言っても聞く耳を持ちませんでした。 
 
運転の身体への負担もそうですが、一度の見舞いの度にかかるガソリン代、高速代など一万円近くの経費も、姉は自分で捻出していました。
もともと給料の管理は旦那がしていて、姉の毎週の里帰りに良い顔をせず、交通費も出してくれなくなったそうです。
その為、姉は週の前半を介護のバイトで稼ぎ、それを全て見舞いの経費につぎ込んでいました。
もしもっと近くに住んでいれば、姉のことだから毎日のように親父を見舞ったと思われ、毎週末の見舞いが本当に彼女の限界だったのだと思います。
 
僕はというと、近くに住んでいるにもかかわらず(片道1時間弱かかりますが)見舞いは一日おき、というのが決まりのようになっていました。
見舞いに行っても親父と大して話すことも無く、デジカメで撮った犬猫たちや近所の風景の写真をテレビに映して見せるくらいのものでした。
 
もともと漁と畑くらいしか楽しみの無かった親父ですから、病院ではベッドの上で
テレビ番組を虚ろに見て過ごすだけで、
日に日に体は動かなくなり、食もほんのわずかとなり、そんな親父を見るのが辛かった、正直、一日おきの見舞いさえ負担に思っていたのも事実です。
 
それでも僕が見舞いに行かなかった日は、看護婦さんに「今日は来ないのか?」と尋ねることも度々だったと。
僕にしてみれば、前日に行ったばかりだし無理を言うな、と言い訳をしていました。
親父が亡くなった当初も、自分は出来るだけのことを精一杯してあげられた、という自負がありました。
 
しかし今は数えきれないくらいの後悔が、連日胸を締め付けるようになっています。
もっともっと、してやれることはあった、と…。
ベッドの上で無為に過ごす親父にとって、唯一の楽しみは家族の顔を見ること、
そんなこと分かっているつもりだったのに、実は分かっていませんでした。 
何故もっと見舞ってやらなかったのか、病室で何もすることはなくても、
ただ顔を出すだけで良かったはずだ、と。
 
姉が限界まで無茶をしてきたのは、親父を楽しませることより、何より自分がそうせずにはいられない、という気持ちのほうが強かったのだと思います。
後になって後悔をしたくないという自分の想いと共に、無意識のうちに親父の気持ちに気付いていたのかもしれません。
 
僕は息子としてそれに気付けず、姉は娘としてそれに気付いていた。
 
親父の娘として限界まで尽くした姉。
告別式の時も、もし親父との最後の別れの場面で泣くのを堪えれば後悔が残る、
だから子供のように泣きじゃくったのかもしれません。
「お父さん、お父さん」と親父にじゃれついていた、子供の頃のままに…。
 
そして、ただひとつ確かだったのは
親父の死を世界中で一番悲しんだのは、間違いなく姉ということでした。
 
 
娘として・終
 
 
 
(後記)
親父の葬儀にまつわる記事は二つで総括するつもりだったのですが、
思いのほか長くなってしまい、分けて、分けて、の倍になってしまいました。
長らくお読み頂いた方々には申し訳ありませんでした。
 
現在はとりあえず落ち着いたものの、親父名義の各種機関の変更、遺産相続の手続き、今まで親父が漁の合間にしていた庭や畑の手入れもこなさなければならず、
まだしばらくは忙しさが続きそうです。
あと、親父の入院中の出来事も、これから時折書いてゆく予定です。
そして、何より本来の?猫ブログに戻りますので^^
 
親父に代わりまして、これまで沢山の暖かいお言葉をどうもありがとうございました。
 
 

全て終わりました。。。

  
深夜まで続いたお通夜で仮眠程度しか取れていませんでしたが、気分はむしろ良いくらいで、いつも通りにジュンの散歩や猫たちの朝ご飯を済ませ、告別式の斎場に向かいました。
告別式は家族葬という形で、親類とごく親しい友人だけを招きました。
 
式が始まると、普通ならご住職一人でのお経ですが、(戒名とお布施の額から?)
二人のサポート(お坊さん)が加わった三人編成となりました。
センターはご住職の木魚、左にトライアングルのようなもの、右にシンバルのようなものを持つお坊さんがいて、木魚のリズムに連動してチーン!ガッシャン!ガッシャン!と賑やかなものに。
これは祖母の葬儀の時と同じ編成で(お寺の住職さんは当時とは別の人ですが)、
祖母の時は家の中だったので、轟音で耳が痛くなったのを覚えています。
 
告別式は粛々と進み最後にある出来事がありましたが、それは次の記事に書かせてもらいます。
火葬場へ親父を乗せて行く霊柩車は、かなりお金をふんぱつして派手なものを頼んだのに写真を取り忘れたのは残念でした(泣)。
火葬場は隣町なので僕も自分の車に客人を乗せるため、霊柩車に遺影を持って乗る役はお袋に任せました。
 
右が親父の炉で、左には別の人の火葬の準備が始まっていました。
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焼きの始まりがちょうどお昼の時間のため、昼食の会場もここに用意されていて、
昼食が終る頃に焼き終わり知らせが届きました。
 
まだ熱い炉から親父のお骨を二人一組で拾い骨壺へ納める儀式の最中、
お酒が入ったこともあり下の叔父は大声で泣き、上の叔父に諌められる場面もありました。
「俺は兄貴が大好きだったんだ!」と力説する叔父の肩を、僕は力いっぱい叩いて感謝を伝えました。
 
火葬の後、お墓への納骨は日を改めることもありますが、また人に集まってもらうのは大変なので、その日のうちにお墓への納骨式も済ませました。
 
僕の家のお墓になります。
境内に入ってすぐの中央というかなり良い立地なのは、おそらく先祖代々このお寺の檀家だったためなのでしょう。
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中には祖母の骨壺しかなく、親父の骨壺と二つ仲良く並んで納められました。
強い西日の当たる夕方のお寺で散会となり、長かった儀式は全て終わりました。。。

上のお墓とは別に、少し離れた場所にご先祖様たちのお墓があります。
ちょうどその真ん中に咲いた百合の花が、彩りを添えてくれていました✿
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全て終わりました。。。・終