く
前回のつづき
だだをこねまくり(もはや超音波兵器のごときギャン泣きの末)、ついにクマのぬいぐるみをゲットした幼女。
ご両親とともにお店を出ていこうとしたのだったが、またしても何かお気に召さないことがあり、大きな声でごねていた。
あんなことじゃ
手に負えない人間になるのではないか・・・と、オラは幼女の ろくでもない未来を勝手に想像し、ご両親を気の毒に思ったりしたのだった。
そして同時に
ぬいぐるみを押し売りしたみたいで申し訳なかったな・・・
両親ではなくて、幼女に直接注意したほうがよかったのかも・・・
「クマさんが自分のおうちに帰りたいって言ってるの」とか
「クマさんのお父さんとお母さんがこのクマさんがいなくなったって心配しているから、棚に返してあげようか」とかとか
何かもっと機転の利いた話をして諭してあげたらよかったのに・・・
などと、後悔やら罪悪感やら自責の念やらでいっぱいいっぱいになるオラ。
妄想家なので、とにかく いろんな展開がアッチュー間に脳裏に浮かんでくるのである。
(余談だが、いろんな展開って、ある意味、世界線とかパラレルなのかも)
思えば、いつもこんな感じでグルグル考えてしまうオラ。
今回はさらにいっそうグルグルしてしまったのだった。
結果
「人はその経験がしたくてしているんだ」と思うに至った。
どうしてもクマのぬいぐるみが欲しいとごねまくる幼女は、「どうしても欲しくてたまらない」という感情になりたかった。そして、ごねまくるという経験がしたかったのだ。
わが娘にふりまわされて困窮するご両親は、「娘に振り回されて困り果てる」という経験がしたかったのだ。
後悔、自責、罪悪感まみれになっていまったオラは、「この親子の行動により、後悔、自責、罪悪感にまみれる」という経験がしたかったのだ。
と、思えたのだ。
そして、それぞれが「経験したいことを経験している」のだから、そもそもオラ自責の念とか覚える必要はなかったのだと。
いや、そうじゃない。
ネガティブなことを経験したいって思う人間いるはずない!と、これまでは思っていたが、そうじゃなかったのだ、と。
一見「かわいそう」なことでも、それでいいのだ。
すくなくとも、そう捉えたほうが精神衛生上良い。
とはいえ、ただ単に捉え方を変える、といった表面的なことではなく、本当にそのように思えた、というか、腑に落ちたのだった。
これって、目の前のことに一喜一憂しない、俯瞰してとらえる等々、スピや自己啓発界隈でよくいわれていたことだよな。
と、あとで気づいた。
同時に、書籍やらYouTubeやらで、さんざん見聞きしてわかっていたことだよな、ってことにも気づいた。
おそらく、頭ではわかっていても、体ではわかっていなかったんだろうと思う。
つまり、知識はあっても「腹落ち」していなかったのだ。
腑に落ちる。
って、こういうことなんだなと。
「体の声を聞く」って、これまたスピ界隈でいわれていることだが、こういうことなんだろうと思った。
ネドじゅんさんのエレベーター呼吸は、「体の声をきく」トレーニングのようだが、その効果かな?とも。
この幼女ギャン泣き案件があった日から1週間。
以降、あきらかに反芻が減った。
これまでなら、ネガティブ系の案件があると どんどん妄想がふくらんでいたのだが、「このことで懸念を抱くという経験をしたかったのだな」などと考えられるようになり、すると「そうだったのか」と腑に落ちてしまって、そこで妄想が止まるようになったんである。
妄想家あがったりである。
このままでは「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ」側人間になっちまうことだろう
ともあれ
あのお騒がせ親子は、長年のオラの心のクセを改善すべくあらわれた、まさにお客様は神様だったのかもしれない。
感謝∞