横須賀浦賀には奉行所があり、また幕末近代的造船所があった。今は京浜急行は三崎口路線が主流であるが、浦賀が終点である。快速特急(特急)に乗ると堀の内で浦賀行き(各駅停車)に
乗り換える。駅は山際にあり、改札口までエレベーターがある。ターミナル駅なので、線路は行き止まりである。この駅前には住友重機械工業(SHI)の造船所があった。青函連絡船などの
連絡船の実績が多い。浦賀船渠(浦賀ドック)が昭和人には親しみやすい。江戸幕府が作った造船所は横須賀製鉄所(造船所)にその事業が移り、浦賀は明治維新以後は三浦郡
の中核村から落ちて横須賀村に移行した。近代的工法による浦賀造船所を忍ぶものは非常に少ない。ただここで作られた近代的軍艦は日本初である。その名前は「鳳凰丸」と言い、ふね遺産に
認定されている。(船は現存はしていない)
![]()
この浦賀造船所には国内初のドライドックがあったことがSHIの社史に記載されている。ドライドックには「dog run」が付属している。最初は「犬走」とは、不思議な使い方だと思って
居た。1軒建ての家には庭があり、犬走の道が付属しているがドライドックの犬走とはどこを指すのか分からなかった。浦賀ドックの写真を見るとドックの底に行く小さな道と階段が見える。
これが「犬走」だと合点が行った。浦賀ドックは英国の「THE ENGINEER」に建設時の写真と取材記事が載っている。 写真に写っていないが、地上から底にまでにドッグランがあり、
。
階段で下までおりる。このドックツアーに参加を進める。
![]()
衰退した浦賀は函館戦争で活躍した中島三郎助(与力)の出身地で、造船業が興隆した時に
明治政府に提案したのは旧幕臣の榎本武揚らである。
この逸話が語り継がれているのか、浦賀奉行の名前が霞んでいる。浦賀の住民は中島三郎助が偉大過ぎたのか、奉行は江戸に居て浦賀には来なかったと話をするので、奉行が活躍した話は
出てこない。長崎は奉行を丁寧に博物館で扱っている。この差は大きい。長崎奉行を歴任し、赤穂浪士で有名な浅野家の末裔浅野 長祚(あさの ながよし)を語ることはない。
彼は老中に外国船の頻繁な出現に海防論を提案するなど日本の防衛意識を説いた人物の一人である。浅野梅堂は著名な書道家である。彼の書があるが表装していないので、いつかは作りたい。
屏風用の書で中国の漢詩の一部を書いてある。迫力のある書である。この人が横須賀人が認知すれば、披露したいが、浦賀人は奉行より中島三郎助ばかり焦点が集められているので、時節を
待つのみ。石川島は1年早くレンガのドライドックを建造し、浦賀船渠もレンガのドライドックを建造した。この二つの造船会社は過当競争をして事業を悪化させたが、渋沢栄一らの仲裁で、
浦賀船渠が合併した。戦前国威を反映する映画が浦賀船渠を舞台に「徳川無声」主演で製作された。「八十八年目の太陽」八十八年とはペリー来航から数えての数字。単純な駆逐艦を建造する
労働者の生活を描き、国の国威の発揚映画だけで、当時の浦賀船渠の中が写っている記録映画でもある。自衛隊の駆逐艦も建造していたが、今は閉鎖されており、一部横須賀米海軍の修理を
行っている。浦賀再生として「第二の開国」の街とする政策が市報に掲載されていたが、第二の開国でなく、第一の開国の街である。
勝海舟が乗船した咸臨丸は浦賀から米国に出発。勝海舟ご用達のうなぎ屋が浦賀に残っている。
浦賀湾を挟んで西叶神社と東叶神社がある。二つの神社をお参りすると願いが叶うらしい。
この経路に「ポンツー船」が観光ととして運航している。
最近の浦賀の観光は燈明堂と陸軍の砲台跡である。
横須賀には横須賀製鉄所・浦賀奉行 と 戦前の海軍、陸軍の施設が数多く残っている。要塞都
都市と言っても過言ではない。この施設をどのように語り継ぐのか難しい。戦争遺産は日本各地に存在する。保存に力を入れている行政やその反対の行政もある。
戦後80年。素直に平和を知るにはこの「遺跡を無」として破壊するのでなく、丁寧に戦争と平和の議論として次世代に語り継ぐ必要が肝要と思う。
点在する歴史遺産と保存は地域の住民が立ち上がる必要がある。地方行政の予算ではかなり無理。郷土史家の存在は大きい。幅広い知見と見識を有する郷土愛のある郷土史家がいるのか?。
残念ながら浦賀奉行の復元はならず何も変化なしだった。浦賀ドックの有効利用など浦賀は警察署も久里浜に、浦賀病院も移転、駅前にあった居酒屋はどうなったのだろう。
浦賀ドックがあった時代は栄えていた。観光資源だけでなく、飲食店や土産店などのパックが必要だが、浦賀には黎明期の日本の触感がいまはない。
横須賀の定番に飽きた人には浦賀のコミュニティセンターの訪問を進める。
表紙の初代大和は戦後浦賀湾に係留されて刑務所として利用されていた。
de 非宇宙人