松本良順は順天堂大学を創設した左藤泰然に息子で松本家に養子になり松本良順となった。将軍診察する奥医師として長崎に留学してオランダ商館の医師「ポンぺ:朋友」に学んだ。
特に予防医学として「衛生の重要性」を普及させた。神奈川県大磯に海水浴場を開設して、海水浴の普及を図った。
米沢牛の生みの親Henrry Charle Dallas は横浜の居留地時代に家族を伴い葉山のお寺に滞在して海水浴に出かけている。江戸時代末期から明治初期の外国人の健康維持に海水浴は家族の
リクレーションであった。ダラスの兄は横浜でビジネスを展開していたが、その子供のFrance
Dallas は上海に拠点を持っていたが、ジョッキーとして有名であった。
競馬は貴族など富裕層の社交場であり、フランス ダラスは当時の新聞に死亡記事が出るほどであった。曽祖父の歳時記にこのダラスが頻繁に登場する。手袋を土産に貰ったとの記述は
ダラスのジョッキーの手袋だと今考えると大変貴重なもと思い家の中の探索をしたが、残念ながら発見できなかった。歳時記を読んだ時は「何で手袋を貰った」ことが記述してあるのか理解
出来なかった。このダラスとの交流には多くの謎がある。〇どのようにして出会ったか。〇通訳は中国人の名前がある。〇曾祖母福島テルとの関係〇横浜山の手に青い目の親戚がいる。
この時代に居留地に曾祖父はよく出かけている。曽祖父は松本良順の弟子で、島倉伊之助に学び医師となっている。著名な医者に学びその履歴で医者となった。医師国家試験は明治の後半。
明治11年の履歴者が残っているがその中に司馬凌海の名前がある。松本良順と島倉伊之助を主人公として司馬遼太郎が「胡蝶の夢」と題して小説にした。
仲間の一人が「荘子の胡蝶の夢」を紹介してくれた。司馬遼太郎は伊之助の最後の言葉として「私は胡蝶の夢の蝶だったのか」と結んでいる。是非のこの小説を読んで頂きたい。
外国語に優れた伊之助と西洋医学を広めた一人の松本良順の物語である。
松本良順は長崎大学の医学部を創設、後に長崎大学となった。伊之助は医者としては大成
しなかったが、Nitrogenを窒素と翻訳するなど化学・医学用語の造語に貢献した。
日本が西洋医学に目覚めて、オランダ医学から始まり、ドイツ医学(シーボルト。、ベルツ)
アメリカ医学(ヘボン)、フランス医学(サヴァチエ)など欧米の優秀な医師が来日して日本人医師を育てた。
荘子の「胡蝶の夢」を紹介したブログを見て、ふと曾祖父のことを思い出した。嘉永,安政、万延、慶応などの激動の時代に青年期を過ごした。高祖父は茶人で茶会を主宰。
風流人であった。俳画も残っているが、頭を剃り、帯刀をして、弓の訓練をしているポンチ絵が残っている。典型的な御殿医の姿である。
今になってこの高祖父の残した茶器を用いて、どのような心境にて過ごしたか味わいたいと
思った。多分少しはDNAが残っていると思うが・・・全くfar end の世界・・・
教えを請いながら胡蝶の夢の世界が見えるか精進してみたい。
de 非宇宙人