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高村薫氏の「照柿」上下(講談社文庫)を読んだ。


脳出血で倒れたときに読んでいた本が、手元に残っていたのでようやく読み終えた。


警視庁の警部補である合田雄一郎と、その幼馴染みである野田達夫が18年ぶりに再会することで起きてしまう殺人事件、ひとりの女を巡る物語である。あるいは人間の崩壊過程をリアルな日常描写のなかで淡々と描き尽した小説である。


合田雄一郎は、ある殺人事件の捜査をしているときに、鉄道線路に落下して轢死する女の姿を部下とともに目撃してしまう。落下してしまった女と一緒にいた男と、それを追っていた女・佐野美保子。その瞬間、美保子の存在を強烈に意識するようになる合田雄一郎だった。


そして、美保子は合田雄一郎の幼馴染みである野田達夫と不倫していることを知る。ひとりの女の存在がふたりの男の人生の歯車を狂わし、最後は工場労働者として家庭生活を営んでいた野田達夫が殺人事件の手配者になってしまうというストーリーである。


熱処理で炉の温度調整の不具合で、不良品に悩まされる達夫の日常風景や、捜査で一線を逸脱していく合田の日常風景の張り詰めるような描写が作品の重い主旋律となっている。


幼い頃、兄弟のように育ってきた雄一郎と達夫がが、接触したことで起きる不完全燃焼のような化学反応。その色である照柿色に飲み込まれていく、男たちの姿に慄然としてしまうような読後感である。


破滅してしまう人間というのは、その人生の各過程のなかで破滅因子をあらゆるところに潜ませているものである。パンパンに膨らんだ風船か、底無し沼のようなものである。
東京の部屋から持ってきてもらったパソコン、テレビ、DVDレコーダーなどがあるのだが、電源アダプターや配線が何か一つなく、粗大ごみ状態になっている。


東京に居てビッグカメラなど家電量販店が近くにあれば、行ってサクサクできるのだが、田舎で、身体が動かないと何もできないことに唖然としてしまう。家のIT化は遠い道のりである。


まあ、IT化を進めないでも、生きていくことはできると達観するしかないだろう。


パソコンも左手だけでキーボード操作をするのはできるだろうが、ハードルは高いと思う。


天気の悪い日などに外に出るだけで危ないシーンなどが多くなるのだ。雨の日の水たまりなどは大きな沼のような感覚である。足元が滑りやすく、歩く速度も出ず、転倒の危険性がますことを再確認することになった。


雨の日なのに傘を差せず、転倒する危険性があるなら外には出ないことだろう。

不便なこと、不自由なことが日に日に増えていく毎日である。でも、一々不満を溜めて、外に不満を吐き出しても仕方ないことだと思っている。


不自由で、動かない身体にめげてしまう人も多いと思う。私みたいにデイサービスを受ける人やリハビリをやる気にならない人も多いと思う。半年は、自分の現状を受け入れることに時間がかかると思う。


倒れたその日から、すべてが変わると思って進んでいくしかないだろう。変わることを不運と捉えるか、自分が進化、深化していく過程と捉えるかの違いである。
今日は病院での診察がある。昨日より肩の痛みが和らいでいる。


身体が不自由になり、家で療養するようになり、家族には大変な負担を掛けている。とくに年老いた母には感謝している。


こちらが介護しなければならないのに介護される側になってしまった。


家を出てから、好き勝手に生きてきたが、この年齢になり、こんなに一緒にいて世話をやいてもらうと思ってもいなかった。まるで小学校の低学年に戻ったようだ。甲斐甲斐しく世話をやいてくれるのでありがたい。母も身体のあっちこっちが痛いと言っていたが、息子の状態に少し元気になった気もする。気力を張り詰めているのだろう。


いろいろと迷惑を掛けているが、母親の無償の愛をこれほど感じたことはない。ある意味、こんな身体にはなったが一緒に居られる最期の時間ができたと思う。

倒れたときに女の子とカラオケしてたことや、東京の部屋のもろもろなことを一切責めず、一切口にしないでいてくれるのでありがたい。


これも新しい老老介護のかたちであろうか? ありがたい状況ではあるが、状況も段々と変化していくし、この先どう変わっていくかは分からない。


兎に角、身体が少しでも動くようにリハビリに励むしかないと思う。


そのうち、親と一緒にリハビリやデイサービスを受けることになるかもしれない。それもいいか、と思っている。