司馬遼太郎の講演録に、「学生運動と酩酊体質」(1969年)というものがあります。信仰に迷っている頃に読んで感動したものでしたが、今、読み返してみても、共感できるところが多くありました。
 
司馬遼太郎は、この講演の中で、二種の人をあげています。
 
考えてみますと、神様は人間というものを二通りの体質につくったようですね。
 一つはお酒が飲めない人です。
もう一つは、お酒が飲める人、お酒がおいしくて、酔っぱらっていい気持ちだと言える人。この二通りの体質があるように思います。
その酒は、アルコールだけではありません。宗教を含めて思想というものに酔える人、そして酔えない人と、二通りあります。
(司馬遼太郎「学生運動と酩酊体質」『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録Ⅲ』朝日新聞社、1997年、pp.284-285)

次に、日本の歴史に例をとりつつ、日本について次のようにいいます。 

つまり、新しい宗教にどんなに勢いがあったところで、国民の一割を超えるのは難しい国なのかもしれません。国民の一割、つまり十人に一人は、あるいは集団的に酩酊できる人であるかもしれない。けれども十人に九人までは、そういう思想というお酒をあてがわれても、「嫌だ」という人らしい。
(同上、p.287)

思想、宗教については、次のように言い切っています。 

思想や宗教は、小説と同じようにフィクションであります。
 つまり、「嘘」であります。
神様が天国にいるというのは、やはり嘘であります。そして、マルクス・レーニン主義も、嘘であります。いかなる思想も嘘であります。
現実というものから形而上的に飛躍させた、一つの壮大な嘘ですね。
その嘘を、つまりフィクションを信ずるには、やはり狂おしい心が必要となります。
極論しますと、嘘か本当かわからないけれども、とにかく信ずると。
(同上、pp.287-288)

酔える人と、酔えない人との関係については、こういっています。 

お酒の席では、酔っぱらった者が得になります。酔っぱらった人は、素面の人を脅すことができます。脅しが通ることさえあります。
 酔っぱらいが街で少々ふざけたことをして、例えばゴミ箱を壊したとして、「あれは酔っぱらいだ」と言って、その場ではあきらめてしまいます。
酔っぱらいには、それだけの強い力といいますか、まかり通るところがあり、素面の人がそれを避けて通るところがあります。
思想の酔っぱらいも同じですね。
(同上、pp.288-289)

思想、宗教に酔わないではいられない人の存在も、指摘しています。 

明治の文士には、キリスト教徒が多かったですね。青年のときに洗礼を受けて、クリスチャンになる。しかし、彼らがやがて社会主義者になる。
 同じことです。キリスト教も社会主義も、非常に高級なフィクションなのであり、そのフィクションが必要な、つまり酔っぱらわないといられない体質の人がいます。
(同上、p.290)

思想の必要性については、次のように語られています。
 
さて、思想は必要なのでしょうか。
 非酩酊体質の人間にとっては何の必要もなく、むしろ害だけであります。ゴミ箱を壊されたり、ラーメンの屋台を壊されたり、あるいは一向一揆が起ったり、あるいは中世のヨーロッパの宗教戦争が起ったりする。人的な被害があるばかりですね。
(同上、p.290)

思想が必要になる前提として、物質的、精神的な飢えがあげられています。 

思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的に飢え、精神的にも飢えている状態に必要ですね。飢えているからこそ、早大なフィクションの中に入ることができ、信じることができ、酔いが回ります。酔っている間、人間というのは非常に幸福であります。
(同上、p.291)

ここ数年は、司馬遼太郎の著書は読んでいませんでしたが、久しぶりにこの講演録を読み返してみて、また読み返してみようかなという気分になってきました。