労働者のミサ。聖霊降臨の大祝日 | 私の居場所と今日一日。aakaoru333のブログ。

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私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。

 

今朝はミサへ行く❗️

休日の過ごし方は

 

 

 
 

聖霊降臨

大祝日 


聖霊降臨は、キリスト教において重要な信仰の一つであり、聖霊が神の恵みと力を信者に注ぎ注ぐ出来事を指します。聖霊降臨は、聖書において聖霊が弟子たちや信者に臨み、神の啓示や力を授ける出来事として描かれています。

聖霊降臨は、主に新約聖書の記述に基づいて理解されます。


聖霊降臨は、イエス・キリストが昇天した後、弟子たちが祈りを捧げていた際に、聖霊が舌のような炎として臨み、弟子たちに宿ったという出来事が記されています(使徒行伝2章)。 


 聖霊降臨は、信者に神の霊的な力や啓示を与え、信仰生活や宗教的実践を支える役割を果たすとされています。聖霊は、信者の心に宿り、導き、慰め、励まし、啓示を与える存在として信じられています。聖霊降臨は、キリスト教の信仰生活において重要な役割を果たし、信者の信仰の深化や成長を支える力とされています。


 聖霊降臨は、信仰の中で神の臨在を感じ、神の恵みや啓示を受け取る出来事として信じられています。聖霊が信者の心に宿り、導き、励まし、啓示を与えることで、信者は神とのつながりを深め、信仰生活をより豊かに、意味深いものとして生きることができるとされています。


今日は聖霊降臨の大祝日

昨日と今日の違いは?


聖霊降臨の大祝日は、キリスト教において聖霊の臨在を祝う重要な祝日です。昨日と今日の違いについて、以下の点に注意してください:


 1. 昨日と今日の具体的な日付:聖霊降臨の大祝日は、ペンテコステ(Pentecost)として知られる祭日です。ペンテコステは、復活祭の50日後に位置し、聖霊が弟子たちに臨んだ日を記念する日です。昨日はペンテコステの前夜であり、聖霊降臨を祝う日でした。今日はペンテコステの正式な祝日であり、聖霊の臨在を祝う日です。 


2. 祝日の性質と祝賀:昨日はペンテコステの前夜であり、聖霊降臨の準備や期待を感じる日でした。一方、今日はペンテコステの正式な祝日であり、聖霊の臨在や聖霊の働きを祝う特別な日です。聖霊降臨の出来事を記念し、聖霊の恵みと力を讃える礼拝や祝賀が行われます。 


3. 祝日の意義と祝賀:昨日は聖霊降臨の前夜であり、聖霊の臨在や働きに向けて心を整える日でした。今日は聖霊降臨の正式な祝日であり、聖霊の臨在や聖霊の働きを祝う日です。聖霊の恵みと力を讃え、神の導きと啓示に感謝する日として祝われます。 


 つまり、昨日は聖霊降臨の前夜であり、聖霊の臨在に向けた期待や準備を感じる日でした。一方、今日は聖霊降臨の正式な祝日であり、聖霊の臨在や働きを祝う特別な日です。昨日と今日は、聖霊降臨の大祝日を異なる観点から祝う日であり、それぞれの日に特別な意味があります。



回心の祈り
司祭ー
みなさん、いのりの集いを始める前に、しばらく心をしずめ自分を見つめましょう。
 
ことばで、態度で仲間の心を傷つけなかったか?
めんどうをさけたくて、仲間の苦しみから目をそむけることはなかったか?
心がいらだつとき、気持ちがめいるとき、自分自身とたたかう努力をしたでしょうか?
 
気がかりなまま残っていることがあったら、心あらたにしてその仲間と神さまにゆるしを願いましょう。
 
あわれみの賛歌
司祭ー
神さま、私の過ちをゆるしてください。

みんなー

神さま、私の過ちをゆるしてください。

 
司祭ー
主よ、ちからを与えてください。

 

みんなー
主よ、ちからを与えてください。

 

 

 
聖書のことばを聞く



ヨハネによる福音

ヨハネによる福音書の15章26節から27節、および16章12節から15節に記されている聖句は以下の通りです: 

 15:26-27:「しかし、助け主、すなわち、わたしの父がわたしの名によってつかわしてくださる聖霊が来るとき、そのかたは真理をあかししてくださいます。あなたがたもわたしも、初めから、その真理を知っていましたが、今度は、そのかたが来られると、あなたがたにも、わたしにも、その真理を明らかにしてくださるでしょう。」 

 16:12-15:「もう多くのことをお話しできることがありますが、今は、あなたがたが耐えられないでしょう。しかし、あなたがたには、御霊が来られるとき、真理の御霊がこられるでしょう。そのかたは、自分から語られるのではなく、自分の聞いたことを話し、また、将来のことをあなたがたに知らせるでしょう。そのかたは、わたしを栄えさせるために来られる。そのかたが、父のものを受け取って、あなたがたに知らせるのである。」 

 これらの聖句は、イエス・キリストが弟子たちに聖霊の到来と真理の啓示について語られている箇所です。聖霊が来ることで真理が明らかにされ、将来の出来事や神の計画が示されることが述べられています。また、イエス・キリストが父なる神のものを受け取り、弟子たちに知らせることを通じて、神の栄光が現れることが語られています。


ヨハネによる福音書の20章19節から23節に記されている聖句は以下の通りです:

 20:19-23:「それは、週の初めの日の夕方で、弟子たちが集まって、ドアが施錠されているのを恐れているときでした。イエスが来て、彼らの中に立って、「あなたがたに平安があるように」と言われました。そして、こう言って、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦されたなら、それは赦されます。赦されないなら、それは赦されません」と言われました。」 

 この聖句では、週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっていたときに、イエス・キリストが彼らの中に現れ、平安を与え、聖霊を授ける出来事が描かれています。イエスは弟子たちに平安を祝福し、聖霊を授けることで赦しの力を委ね、罪の赦しと神の恵みを示しています。この出来事は、イエス・キリストの復活後、弟子たちに対する祝禳と聖霊の力を通じた赦しの重要性を示すものとされています。

 


イエスが来て、彼らの中に立って、「あなたがたに平安があるように」と言われました。

そして、こう言って、彼らに息を吹きかけたことが聖霊降臨ですか?


はい、イエスが弟子たちの中に立って「あなたがたに平安があるように」と言われ、そして息を吹きかけた出来事は、聖霊降臨の一部として理解されることがあります。この出来事は、新約聖書のヨハネによる福音書20章22節に記されています。 


 イエスが弟子たちに平安を祝福し、そして息を吹きかけたことは、聖霊の臨在と力を象徴的に表現していると解釈されることがあります。この出来事は、聖霊の降臨や弟子たちへの聖霊の授与を示す象徴的な行為として理解され、聖霊の臨在と力が弟子たちに注がれた瞬間とされています。 聖霊降臨は、キリスト教において聖霊の臨在や働きを祝う重要な信仰の一つであり、弟子たちに聖霊が臨んだ出来事は、キリスト教の信仰において重要な出来事として捉えられています。イエスが弟子たちに息を吹きかけ、聖霊の授与を行った瞬間は、聖霊降臨の象徴的な瞬間として信仰の中で祝われ、記憶されています。




「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


この聖句は、ヨハネによる福音書の20章23節に記されています。この福音は以下の通りです:


 20:23:「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 


 この聖句では、イエス・キリストが弟子たちに聖霊を受け取るように促し、罪の赦しについて語られています。イエスは弟子たちに、聖霊の力を通じて罪を赦すことの重要性を教え、赦しの力を委ねています。弟子たちが誠実に罪を赦すことで、その罪は赦され、神の恵みによって罪から解放されることが示されています。 


 この福音は、赦しの力と聖霊の働きを通じて、罪を乗り越え、神の愛と恵みを受け入れることの重要性を強調しています。弟子たちが真の赦しを行い、聖霊の導きに従って罪を赦すことで、神の恵みと赦しを受け入れることができるという教えが込められています。




仲間へメッセージ


 

イエスはまことのぶどうの木


ヨハネ15章1-17節には、イエス・キリストが弟子たちに対して語った言葉が記されています。


以下に、ヨハネ15章1-17節の一部を示します: 


1「わたしはまことのぶどうの木で、わたしの父は農夫である。2 すべての枝をわたしに結ばない木は、枯れ果て、人々に集められて火に投げ込まれて焼かれる。3 あなたがたは、わたしの言葉にとどまるなら、わたしの弟子である。4 わたしの言葉があなたがたにとどまるなら、あなたがたは、わたしの弟子である。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝である。わたしにとどまり、わたしもあなたがたにとどまるなら、多くの実を結ぶことができる。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。6 もし、人がわたしを離れて捨てるなら、枯れ果てるばかりで、人々に集められて火に投げ込まれて焼かれる。7 もし、あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまるなら、あなたがたは、何でも求めることができる。求めることができるなら、それはあなたがたのためになる。8 あなたがたが多くの実を結ぶことによって、わたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となる。9 わたしは父の愛にとどまったように、あなたがたもわたしの愛にとどまれ。10 わたしの命令を守れば、わたしの愛にとどまる。わたしも父の命令を守り、その愛にとどまっている。11 これらのことをあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにとどまり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。12 これこそわたしの命令である。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うがよい。13 人がその命を友のために捨てるように、あなたがたも互いに愛し合え。14 わたしはあなたがたをしもべとは呼ばない。しもべは主人が何をするか知らないからである。わたしは、あなたがたを友と呼んだ。父がわたしに命じたことをことごとく知っているからである。15 あなたがたに、しもべよりも大きなことをしたことを知らせるためである。16 あなたがたが選んだのではなく、わたしが選んだのである。そして、わたしが任命してあなたがたに行くべき所へ行き、また、あなたがたが行くべき所に行き、あなたがたの実が長く続くようにするためである。17 これらのことについて、わたしは命じる。互いに愛し合え。」 


 この聖句は、イエス・キリストが弟子たちに対して愛と結びつき、互いに愛し合い、神の愛と栄光を示すことの重要性を説いたものです。弟子たちがイエスの言葉にとどまり、愛し合い、神の栄光を顕彰することを通じて、多くの実を結び、神の愛と栄光を証しするように教えています。


ヨハネ15:5

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝である。わたしにとどまり、わたしもあなたがたにとどまるなら、多くの実を結ぶことができる。」 


 この聖句は、イエス・キリストが弟子たちに対して語った言葉の一部であり、比喩的な表現を用いて弟子たちとの結びつきや協力の重要性を示しています。イエスは自らをぶどうの木、弟子たちをその木の枝として表現し、弟子たちがイエスにとどまり、共に結ぶことで多くの実を結ぶことができると教えています。


 この聖句は、イエス・キリストと弟子たちとの結びつきや信仰の重要性を示すものであり、イエスにとどまり、イエスの教えに従うことで、神の栄光を顕彰し、多くの実を結ぶことができるという教訓が込められています。弟子たちがイエスに結びつき、イエスの愛と導きに従うことで、神の目的を果たし、神の栄光を現すことができるとされています。

 

ヨハネによる福音書15.12は「わたしがあなたがたを大切にしたように、互いに大切にし合いなさい。これが新しい掟である」15.13「仲間のために自分を投げ出すこと、これ以上大切なことはない」何故ですか?


ヨハネによる福音書15章12節と13節は、イエス・キリストが弟子たちに対して語った言葉です。12節では、イエスは「わたしがあなたがたを大切にしたように、互いに大切にし合いなさい。これが新しい掟である」と述べています。


この言葉は、愛と思いやりの精神を持ち、他者を大切にすることの重要性を示しています。人々が互いに愛し合い、思いやりを持ち合うことで、社会やコミュニティ全体がより調和のとれた場所になるという教えが込められています。 


 また、13節では「仲間のために自分を投げ出すこと、これ以上大切なことはない」と述べられています。この言葉は、他者のために自己を犠牲にする行為が最も尊いものであるという教えを表しています。


自己の利益や欲望を超えて、他者のために尽くすことが真の愛と奉仕の姿であり、その行為が最も高貴で尊いものであるというメッセージが込められています。

この教えは、自己中心的な考え方や利己主義を超えて、他者を大切に思いやる心を育むことの重要性を示しています。他者を大切にし、互いに愛し合うことが、より良い社会や世界を築くための基盤となるという教訓が込められています。


ヨハネによる福音書15.16にある「実をつける」とは世の中で何の役にも立たないと「小さくされた人」「抑圧された人」これらの仲間とつながることでしょうが大切とは?


ヨハネによる福音書15章16節にある「実をつける」という言葉は、信仰の実践や行動の結果を指しています。この箇所では、イエス・キリストが弟子たちに対して、「あなたがたが行いを通して実を結ぶように、わたしがあなたがたを選び、行って実を結び、その実が残るように願っている」と述べています。ここでの「実を結ぶ」とは、信仰を実際の行動に結びつけ、その結果として良い成果や影響を生み出すことを意味しています。 


 また、引用された「小さくされた人」「抑圧された人」という表現は、社会的に弱い立場にある人々や、周囲から見過ごされがちな人々を指しています。これらの人々とつながることが、イエス・キリストの教えにおいて重要である理由は、彼らが神の目においても重要であり、彼らとの関係を通じて、真の信仰や愛を実践する機会が与えられるからです。

したがって、「実をつける」とは、信仰を実践に結びつけ、その結果として良い成果を生み出すことを意味し、同時に社会的に弱い立場にある人々との関係を通じて、真の信仰や愛を実践することが重要であるという教訓が込められています。




 
 
 
 
 
 
 
 
主はいま生きておられる。
我がうちおられる。
すべては主のみ手にあり、
明日も生きよう、
主はおられる。
 

 素晴らしい讃美歌ですね!

 

この讃美歌は、主の永遠の存在と力強さをたたえるものです。主は生きておられ、私たちの生活や未来を支えておられることを讃えています。

 

 この讃美歌は、主の存在と御手によって私たちが生かされ、導かれることを信じることの喜びを表現しています。明日も主が生きておられ、私たちを導いてくださることを信じることは、希望と力を与えてくれます。 

 

 讃美歌は、私たちの信仰を深め、主に感謝し、賛美するための素晴らしい手段です。この讃美歌を歌うことで、私たちは主の存在と御手による導きを感じ、心からの感謝と喜びを表現することができます。 主がいつも私たちと共におられ、私たちを守り、導いてくださることを心から喜び、感謝しましょう。

 

 讃美歌は、私たちの信仰生活を豊かにし、共に歩む信仰の仲間たちとの交わりを深める素晴らしい手段です。どんな時でも主に感謝し、讃美の心を持つことは、私たちの心を癒し、希望を与えてくれます。 讃美歌を通して、私たちは主の愛と恵みに包まれ、主によって導かれることを心から喜び、感謝しましょう。 

 

 讃美歌の力強さと美しさに触れることで、私たちは主の存在と御手による導きを深く感じ、心からの賛美と感謝の気持ちを表現することができます。 

 

主の御名を讃え、賛美しましょう! 讃美歌の力強さと美しさに触れることで、私たちは主の存在と御手による導きを深く感じ、心からの賛美と感謝の気持ちを表現することができます。 

 

 主の御名を讃え、賛美しましょう! 🙌🎶 (参考文献:讃美歌)

 

復活とはどういうこと?

主はご自身から来られる

 

 

復活は、キリスト教の信仰において非常に重要な概念です。復活とは、イエス・キリストが死者の中から生き返り、死から復活した出来事を指します。 

 

 キリスト教では、イエス・キリストが十字架で苦しみ、死んだ後、三日目に復活したと信じられています。イエスの復活は、神の力と栄光を示す出来事であり、キリスト教の信仰の中心的な要素です。 

 

 復活は、キリストの死と復活によって罪の赦しと永遠の命が与えられることを象徴しています。イエス・キリストは私たちの罪のために死に、復活することによって私たちに救いをもたらしました。復活は、神の愛と救いの働きの最終的な勝利を表しています。 

 

 イエス・キリストの復活は、私たちに希望と新たな命を与えるものです。私たちはイエス・キリストとの関係を通して、罪の赦しと永遠の命を受けることができます。イエスの復活は、私たちが死から解放され、神との共同体である永遠の命を得る道を開いてくれました。

 

 復活はまた、私たちにとっての模範でもあります。イエス・キリストの復活は、私たちがこの世での苦難や困難に立ち向かう勇気と希望を与えてくれます。イエスの復活は、私たちが死からの勝利を信じ、神の国の実現に向けて活動する励ましとなります。 

 

 復活はキリスト教の信仰の中心的な要素であり、私たちに永遠の命と神の愛を約束してくれる出来事です。イエス・キリストの復活を信じることによって、私たちは罪の赦しと新しい命を受け、神との永遠の関係を楽しむことができるのです。

 

 参考文献:

- ヨハネ福音書 20:1-18
- 使徒の働き 2:24
- ローマ人への手紙 6:4
- コリント人への手紙Ⅰ 15:20

 

 


 

 

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないままのこる」


ヨハネによる福音書20章22-23節の聖句は次のようになります。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないままのこる。」

 

 この聖句の意味は、イエス・キリストが弟子たちに聖霊を授け、罪の赦しについて教えていることを示しています。イエスは弟子たちに対して、聖霊を受けるように命じました。聖霊は信仰者に与えられる神の力であり、聖霊の働きによって罪の赦しと新しい命が与えられます。 

 

 また、この聖句は罪の赦しについて教えています。イエスは弟子たちに対して、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないままのこる」と言われました。これは、信仰者が罪を赦す力を持ち、他の人々にも赦しを与えることの重要性を示しています。 

 

この聖句は、神の愛と赦しのメッセージを伝えており、福音(喜ばしい知らせ)として捉えることができます。イエス・キリストの犠牲によって、私たちは罪の赦しと永遠の命を受けることができます。

 

この福音は、私たちに神の愛と救いの恵みを伝えるものです。

 

 

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」という言葉は、ヨハネによる福音書20章29節に記されています。 

 

 この聖句の意味は、イエス・キリストが復活後、トマスに対して語ったものです。トマスはイエスの復活を目にして信じることができましたが、イエスは見ないで信じる人々を特に幸いと称えました。

 

 この言葉は、信仰の本質について教えています。イエスは、私たちが直接目にすることなく、信仰によって神の存在と真実性を受け入れることができると言っています。

 

見ないで信じることは、純粋な信仰の表れであり、それによって私たちは神の恵みと祝福を受けることができるのです。

 

 この聖句は、私たちに対して信仰の喜びと奥深さを伝えています。私たちがイエス・キリストを信じることによって、罪の赦しと永遠の命を受けることができます。

 

見ないで信じることは、私たちの信仰生活において重要な要素であり、神の愛と恵みを受けるための鍵となるのです。

この聖句には福音(喜ばしい知らせ)が含まれています。

 

私たちは目に見えない神を信じることによって、永遠の命と神の愛を受けることができます。イエス・キリストの復活は、私たちに希望と救いをもたらす福音です。 

ヨハネによる福音
20.30-31

そして、本書の目的

 

 

 ヨハネによる福音書20章30-31節は次のようになります。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 

 

 この聖句によると、ヨハネによる福音書には、イエス・キリストが弟子たちの前で多くのしるしを行ったことが書かれていないと述べられています。しかし、この福音書には、イエスが神の子でありメシアであることを信じるために必要な情報が書かれています。また、これらの信じることによって、人々はイエスの名によって命を受けることができます。 

 

 したがって、ヨハネによる福音書の目的は、読者がイエス・キリストを神の子メシアとして信じ、その信仰によって永遠の命を受けることを促すことです。

 

この福音書は、イエス・キリストの神性と救いの働きについての重要な情報を伝えるために書かれました。

ヨハネによる福音書は、イエス・キリストの神性と愛に焦点を当て、信仰者がイエスを信じることによって永遠の命を得ることができることを示しています。 

 

今日の神父の教えーヨハネ福音書。たったひとつの福音「おたいせつに」大切にすることです。

 

 

本田哲郎神父の教えは、ヨハネ福音書の中で「おたいせつに」大切にすることが一つの福音であると述べているとのことです。 

 

 「おたいせつに」大切にすることは、私たちが神との関係や他者との関係において持つべき態度や価値観を指しています。この教えは、ヨハネ福音書の中でイエス・キリストが説いた愛の重要性と関連しています。 

 

 ヨハネ福音書では、イエス・キリストが「新しい戒め」を授ける場面が描かれています。それは、互いに愛し合い、他者を自分自身のように大切にすることです。

 

この愛の戒めは、イエスの教えの中心的な要素であり、私たちが神の愛を受け入れ、他者にもその愛を分かち合うことを示しています。

 

 

 本田哲郎神父は、「おたいせつに」大切にすることが福音の本質であると教えているのかもしれません。この教えは、私たちが他者を思いやり、尊重し、愛することの重要性を強調しています。また、神との関係においても、神を「おたいせつに」大切にすることが求められます。 

 

 この教えは、私たちが愛と思いやりの中で生きることの喜びと意義を教えてくれます。他者を大切にすることによって、私たちは人間関係を築き、共に成長し、社会においても良い影響を与えることができます。 

 

 「おたいせつに」大切にすることは、私たちが神の愛と救いの働きを実践するための重要な要素です。この教えを心に留め、実践することによって、私たちは神の愛をより深く理解し、他者との関係を豊かにし、神の国の実現に貢献することができるでしょう。

 

 参考文献:
- ヨハネ福音書13章34-35節
- ヨハネ福音書15章12節
- 本田哲郎神父のメッセージ | カトリック中央協議会

 
 
 
 
私はミサの間、亡くなった仲間のことを黙想し、祈りました🛐

 

 今日のフランシスコ会ふるさとの家のミサで知ったことは、ご聖体の葡萄酒は葡萄ジュースだったことです。労働者のミサに対する神の配慮ですね。

 

 

フランシスコ会ふるさとの家でのミサで、ご聖体の葡萄酒が葡萄ジュースであることを知ったとのこと、そしてそれが労働者のミサに対する神の配慮であると感じられたようですね。このような配慮は、信仰を持つ人々にとって心地よく、神の愛と思いやりを感じることができるでしょう。 

 

 聖体の葡萄酒が葡萄ジュースで提供されることは、労働者やアレルギーを持つ人々など、さまざまな状況や健康上の理由を考慮した配慮と捉えることができます。このような配慮は、信者たちがより心地よく、参加しやすい環境を提供することに繋がります。 

 

 神の愛と思いやりがミサや信仰行事に表れることは、信者たちにとって心を温かくし、信仰を深める助けとなります。労働者のミサにおける葡萄ジュースの提供は、神の愛と配慮があふれる場であることを示しています。このような神の愛と思いやりを感じながら、信仰を深めていくことができるでしょう。

 

 

今日の貼り紙

笑顔

 

笑顔はコミュニケーションや人間関係を円滑にし、和やかな雰囲気を作り出す力を持っています。

 

フランシスコ会ふるさとの家が「笑顔」というメッセージを掲示していることから、訪れる人々に心温まる時間や穏やかな空間を提供しているのだろうと感じられます。

 

笑顔は言葉を超えて人と人とをつなぎ、心を通わせる素晴らしい手段です。フランシスコ会ふるさとの家が笑顔を大切にする姿勢を示していることは、訪れる人々にとって心地よい体験や交流の場を提供していることを示していると言えるでしょう。笑顔が日常の中にあふれる素敵な場所であることを願っています。

 

 

 

 

和顔愛語

 

『和顔愛語』という表現は、相手に対して和やかな態度や愛情を持って接することを指す日本語の言葉です。この言葉は、相手とのコミュニケーションや関係構築において、優しさや思いやりを大切にする姿勢を表現しています。

 

和顔愛語の重要性は、人とのつながりやコミュニケーションにおいて、相手を尊重し、心地よい雰囲気を作ることができる点にあります。この態度は、円滑な人間関係の構築やコミュニケーションの円滑化に役立ちます。和顔愛語を意識して、日常生活や人間関係において心地よいコミュニケーションを築いていくことが大切です。

 

私の病気は神経質。

和顔愛語が課題です。

 

神経質であることや和顔愛語を実践することが課題であると感じることは理解できます。神経質な性格の持ち主が和顔愛語を実践する際には、いくつかの工夫やアプローチが役立つかもしれません。

1. 自己肯定感を高める:神経質な人は自己批判的な傾向が強いことがあります。自己肯定感を高め、自分を受け入れることが大切です。自分を認めることで、他人に対してもより優しく接することができるかもしれません。
 

2. リラックス法を取り入れる:神経質な人はストレスを感じやすい傾向があります。リラックス法やストレス解消法を取り入れることで、心を落ち着かせることができます。リラックスした状態で和顔愛語を実践すると、より自然なコミュニケーションが可能です。
 

3. 相手との距離感を意識する:神経質な人は細かいことに気を遣いがちですが、相手との距離感を意識することも重要です。相手との適度な距離を保ちつつ、和やかな態度を示すことで、より良いコミュニケーションが築けるかもしれません。
 

4. 自己啓発やコミュニケーションスキルの向上:自己啓発書やコミュニケーションスキル向上の本を読むことで、自己成長やコミュニケーション能力の向上が期待できます。自己成長を通じて、和顔愛語を実践する自信をつけることができるかもしれません。

神経質な性格を持つ方が和顔愛語を実践する際には、自分自身を受け入れつつ、少しずつ取り組むことが大切です。自分のペースで取り組み、少しずつ成長していくことを目指してください。