労働者のミサ。年間第6主日 #休日の過ごし方は | 私の居場所と今日一日。aakaoru333のブログ。

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私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。

 

 
心をととのえる
 
 
 

休日の過ごし方は

 

今朝はミサへ行く❗️

 

 

 


年間第6主日

 






 
今日の福音は 
マルコによる福音
1.40-45
「救いのお知らせ」
 


 マルコの福音書1:40-45は、イエスが重い皮膚病を患っている人の願いを受け入れ、その人を清める出来事を描いています。イエスは深く憐れみ、手を差し伸べて触れ、その人を清めました。福音の意味は「救いの知らせ」です。

 

福音の知らせが人々の罪からの救いを伝える方法は、イエス・キリストの犠牲と十字架での死と復活によって実現されます。

 

福音は、まず、私たちが罪の存在とその結果である死と永遠の別れを認識することから始まります。私たちは皆、神の律法に背いて罪を犯し、神との関係が壊れてしまった存在です。

 

しかし、福音は神の愛と恵みを伝えるものです。神は私たちを愛し、私たちのために救いの計画を持っておられました。イエス・キリストは神の御子としてこの世に来られ、私たちの罪のために死ぬことを選ばれました。イエスの死は私たちの代わりに贖罪の犠牲となり、私たちの罪を完全に償いました。

 

そして、イエスは三日目に死者の中からよみがえりました。この復活によって、イエスは死の勝利を示し、私たちにも永遠の命の希望を与えてくれます。私たちは、イエスを信じ、罪を悔い改め、彼を主として受け入れることによって、神の恵みによる罪からの救いを受けることができます。

 

福音の知らせは、私たちがイエス・キリストを信じることによって、罪からの解放と神との和解を実現する道を示しています。

 

 コリントの信徒への手紙

10.23-11.1

「コリントの信徒への手紙10.23-11.1」の中で、他人のために善を求めることがどのように強調されているかを見つけることができました。

 

1コリント10:24の箇所では、「だれも自分の益を求めるべきではなく、他人の益を求めるべきです」と述べられています。

 

また、1コリント10:33の箇所では、「わたしはすべての人に喜ばれるように努めています。自分の益を求めるのではなく、多くの人々の益を求めるためです」と述べられています。

 

これらの箇所から分かるように、コリントの信徒たちは自己中心的な行動ではなく、他人の利益や幸福を考えるように励まされています。他人のために善を求めることが重要であるとされています。



仲間へ
メッセージ
 
「いいことだと、思ってやることが、相手にとってはよくなかったりするよ」
 

フランシスコ会ふるさとの家本田哲郎神父の言葉はとても深い意味を持っています。


「いいことだと思ってやることが、相手にとってはよくなかったりするよ」という言葉は、私たちが他人のために善を求める際に大切な考え方を教えてくれます。

 

この言葉は、他人の立場や状況を十分に理解し、その人にとって本当に必要なことを考えることの重要性を示しています。時には、私たちが思っていることややりたいことが、相手にとっては良くない結果をもたらすこともあります。そのような場合には、相手の立場や感情に寄り添い、コンパッション(思いやり)を持って行動することが求められます。

 

他人の利益や幸福を考える際には、単に自分の思いや価値観だけで判断するのではなく、相手の立場や感情を尊重し、真のコンパッションを持って接することが重要です。このような思いやりの心を持って行動することで、相手にとって本当に良い影響を与えることができます。

 

神父の言葉は、私たちにとって重要な教えであり、コンパッションの大切さを教えてくれるものです。私たちは常に他人に対して思いやりを持ち、相手の幸福を考えることを心がけるべきです。


コンパッションを持って行動するとは、他人の苦しみや困難に共感し、思いやりの心を持って行動することを意味します。具体的には、以下のような行動や態度を示すことが重要です。

 

1. 共感すること: 相手の立場や感情に寄り添い、その人の苦しみや困難を理解しようとすることです。相手の経験や感情に共感することで、彼らの心情を受け止め、支えることができます。

2. 優しさを示すこと: 優しさや思いやりの言葉や態度で相手に接することです。相手を尊重し、励まし、支えることで、彼らに安心感や希望を与えることができます。

3. 助けること: 相手の困難を解決するために、具体的な支援や援助を提供することです。自分の能力や資源を活用して、相手が困っている問題を解決する手助けをすることが重要です。

4. 共に喜ぶこと: 相手の幸福や成功を喜び、共に喜びを分かち合うことです。相手の喜びに共感し、彼らの成果や成長を祝福することで、絆を深めることができます。

 

コンパッションを持って行動することは、他人とのつながりを強め、共同体や社会全体の幸福に貢献することにつながります。相手を思いやり、支えることで、人々の心に温かさや希望をもたらすことができます。

 

深くあわれんでとは?はらわたをうごかされたとは?


「深くあわれんで」という表現は、マタイによる福音書20:34で使われています。この箇所では、イエスが群衆の中にいる病人たちを見て、深いあわれみを抱き、その病人たちの目を触れることで、彼らがたちまち見えるようになり、イエスに従って行ったという出来事が描かれています。

 

「深くあわれんで」とは、イエスが病人たちの苦しみや困難に深く共感し、その状況に心を動かされたことを表現しています。イエスは彼らの苦しみに対して深い思いやりと同情を示し、その苦しみを和らげるために行動しました。

 

本田哲郎神父が「はらわたをうごかされ」と訳し増すと述べたのは、この「深くあわれんで」の表現に対して、さらに強い感情や内面の動揺を含意しているということです。彼は、イエスの深いあわれみが単なる同情以上のものであり、心の奥底まで動かされるようなものだと考えているのかもしれません。

 

このような深いあわれみの心は、他人への思いやりや慈愛を示す上で重要な要素です。私たちは他人の苦しみに共感し、深い思いやりを持って行動することで、相手の心を癒し、支えることができます。


イエスの深いあわれみは、他人の心を癒し、支えるためにいくつかの方法で働くことができます。

 

1. 共感と理解: イエスの深いあわれみは、他人の苦しみや困難に共感し、理解することを示しています。この共感と理解は、他人が自分の苦しみや悩みを受け入れられ、自分を理解されていると感じることで心の癒しをもたらすことがあります。


2. 希望と勇気の与える: イエスの深いあわれみは、希望や勇気を与える力も持っています。他人が自分の苦しみや困難に直面しているとき、イエスのあわれみを通じて、彼らに希望を与え、困難に立ち向かう勇気を与えることができます。


3. 癒しと慰め: イエスの深いあわれみは、癒しと慰めをもたらすことがあります。彼の存在や言葉に触れることで、他人は心の傷や痛みを癒すことができ、慰めを受けることができます。


4. 導きと救い: イエスの深いあわれみは、他人を導き、救いへと導く力も持っています。彼の愛とあわれみに触れることで、他人は自分自身や人生の目的や意味を見つけることができ、救いへの道を歩むことができます。

 

イエスの深いあわれみは、他人の心を癒し、支えるために無限の愛と力を持っています。そのあわれみを通じて、他人は自分自身を受け入れ、成長し、希望を見出すことができます。私たちもイエスのあわれみの姿勢を学び、他人の心を癒し、支えるために思いやりと愛を持って行動することが大切です。


小さくされたものとは?

もっとも小さくされたものは?
 

社会の仕組みによって「小さくされたもの」とは、一般的には社会的な力関係や構造によって影響を受け、不利な立場に置かれる人々を指します。これは、社会的な差別や偏見、経済的な格差、権力の不均衡などが原因となっています。

 

例えば、社会の仕組みによって「小さくされた人々」としては、以下のようなグループが挙げられます:

 

1. 社会的弱者: 経済的に貧困な人々や社会的に孤立している人々、身体的・精神的な障害を持つ人々などが含まれます。彼らは社会的な資源や機会にアクセスしにくく、社会の主流から排除されることがあります。

 

2. マイノリティ: 人種、民族、性別、性的指向、宗教などの要素によって差別や偏見を受ける人々が含まれます。彼らは社会的なステレオタイプや偏見によって制約を受け、平等な機会や権利を享受することができない場合があります。

 

3. 労働者: 低賃金労働者や非正規雇用の労働者など、労働条件や経済的な不平等によって不利な立場に置かれる人々が含まれます。彼らは適切な労働条件や経済的な安定を得ることが難しく、社会的な地位や機会に制約を受けることがあります。

 

これらの例は一部であり、社会の仕組みによって影響を受ける人々は多岐にわたります。社会的な不平等や差別に対しては、社会的な正義や平等を追求する取り組みが必要です。

 

そして、イエス・キリスト

 

本田哲郎神父が「最も小さくされたものはイエス・キリストです」と言われたという言葉については、具体的な引用や詳細な情報が見つかりませんでした。

 

ただし、このような表現はキリスト教の信仰において一般的に使われることがあります。

 

キリスト教の教えでは、イエス・キリストが神の子として世に降り、人間としての苦しみや痛みを経験したとされています。イエス・キリストは十字架にかけられ、死者の中から復活し、人々の罪の贖いとしての役割を果たしました。このような教えにおいて、イエス・キリストは人間の中で最も小さくされた存在とされることがあります。

 

 

 

 只今改装中

 
 
 
 
私はミサの間、亡くなった仲間のことを黙想し、祈りました🛐