イランの鉄道ループ線を行く その2 | アーディで行こう

アーディで行こう

「普通」を意味する便利な言葉、「アーディ」 地元の足として、とことこ走るバスなんかを「アーディ バス」、エジプトではエアコンなし列車を「アーディ」 そんな方法での旅を紹介しましょう。
え、そんなの自分には無理だって? 大丈夫。「アーディ、アーディ」

ヴェレスクの駅へ駆け下りる
列車はドゥキャルという駅を過ぎてトンネルを使って再度転進し、3段目を東へ進みます。対岸を走る道路ともども谷底へ降りてきたな、と思いつつ短いトンネルを抜けると、下のような展望が車窓に開けました。
眼下に線路と駅が見えます。まだまだ下りが続くのです。
アーディで行こう-ヴェレスクループ上から
その後もトンネルを使って再度方向転換し、上の写真の中段に見えているヴェレスクという駅に左側から進入します。乗客も手をたたいて喜んでいます。
アーディで行こう-ヴェレスク駅
列車後方を見ると、これまで通ってきた線路が山肌にへばりついているのがわかります。緑の木々で覆われている山肌の中ほどに一筋横切っているのが前回紹介した3段になっていた中段、その下、はげた山肌に変わるところにあるのが下段です。この駅はさらにもう一段下にあるのです。
アーディで行こう-ヴェレスク駅

ヴェレスク橋
上の写真の左側にアーチ橋が見え、このページの1枚目の写真はこの橋の上から撮影していたことに気づきました。この橋はヴェレスク橋といい、イランの鉄道を紹介する際には必ず取り上げられる橋のようです。この橋自体はドイツ人技師の指導で建設されたとされていますが、テヘランとカスピ海をつなぐこの路線自体は時の皇帝レザー・シャーの強い建設意欲を受けて、スカンジナビアの会社を胴元にイギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど12カ国の会社が43工区に分けて建設を請負い、1937年に全通しました。この橋の手前にある断崖に3段にレールが敷かれた部分はイタリアの会社が請け負ったということですから、国際的な協業体制によって、このような急峻な地形を克服できたということでしょう。資金はイラン自体が出していたので、列強のどこからも干渉されることのない、イラン固有の鉄道のはずでした。
ところが、1940年に第二次世界大戦が始まると状況は一変します。この鉄道を含むペルシア経由でソビエトへ支援物資を送りたい連合軍側は、中立ややドイツ寄りの姿勢をとるレザー・シャーを厭い、軍事侵攻を含む内政干渉を行って皇帝を退位させ、彼の息子を傀儡として補給路の実権を握ったのでした。以後イランを経由する補給路はペルシアルートとして大戦中のソビエト支援の要となっていきます。

アーディで行こう-ヴェレスク橋

列車乗務員はドアを開け閉めしたり、合間にチャーイ用のお湯を配ったりと、きびきび働いており、だらだらと働かない人々が多いヨルダンと比べるとびっくりです。
アーディで行こう-チャーイを配るスタッフ

ヴェレスクを出ても勾配を押さえるために右へ左へ蛇行を繰り返し、ようやくポレセフィード駅につきました。峠の手前のカドゥークから68キロ、69のトンネルと31の橋をつないたこの区間の標高差は1543mもあるそうです。ポレセフィードからは勾配も緩やかになるようで、本務機関車の後ろに付けていた補助機関車を切り離します。乗客のイラン人も興味深そうに作業を見つめていますが、この駅でも軍人が構内を厳しく警邏しており、ケータイでの記念撮影(イランでもカメラ付きケータイが主流!)もことごとく静止されていました。
アーディで行こう-ポレセフィード駅