涼しくなると、パイプに火を点ける気も起きるし、少しは活字を追う気も起きる。
例によって、積ん読本を漁ったら、この時期にぴったりのネタを見つけた。
オリンピックで続々、新しいヒーロー、ヒロインが生まれている。彼等の努力の賜であることに敬意を表するが、残念ながら、彼等の栄光の『寿命』は短いだろう。
多分、次のオリンピックまでには、ほとんど忘れられ、さらに十年か二十年すれば、北京オリンピックのメダリストも記録映像でも流してくれない限り、覚えている人はいなくなるだろう。
このように、歴史に名を刻むというのは、実に困難なものなのだ。
しかし、世の中には例外がつきもので、『業績』を何ら残すことなく、歴史に名を刻んだ人もいるのだ。
例えば、R・ウイリアムズなんかがそうだ。
彼は、あのペリー提督が指揮する米東インド艦隊所属のミシシッピ号の2等兵であったが、日米会談が行われる二日前に帆柱から落ちて死んだのだ。
普通なら水葬にされて終わりだが、さすがペリー提督、おそらく顔も知らないであろう部下の死を無駄にすることはなかった。
日米会談で、ペリー提督は、ウイリアムズの埋葬地の提供を日本に強引に迫ったのである。
これを開港、ついでに基地提供の足がかりにしようというのが見え見えであったが、案件の性質上、日本(幕府)も断りにくい。
すったもんだの末、不運な2等兵R・ウイリアムズは、日本に葬られたアメリカ人第一号、つまり、横浜外人墓地での永眠第一号として、歴史にその名を刻むことになったのだ。
つまり彼の唯一の業績である『無意味な死』が、彼の『栄光』となったわけである。
蛇足であるが、こうして横浜外人墓地の第一号として埋葬されたロバート・ウイリアムズであったが、横浜が安住の地とはならなかった。
三ヵ月後、彼の遺体は伊豆下田の玉泉寺に改葬されることとなったのだ。これは日米和親条約、付加条項第五條により、アメリカ人の埋葬地が伊豆下田柿崎玉泉寺と定められたためである。
ここでも彼は幸運であっと言えるだろう。
皮肉な幸運の女神は、またしても彼の死後に微笑んだ。遠く異郷の地に一人葬られた彼の孤独はそれほど長くはなかったのだ。じきに同じく事故で死亡したアメリカ人4名が埋葬されたからである。
遠く異郷の地で没した彼の傍らに同郷の人達が眠ることになるとは、地下のウイリアムズは何を思っているだろう。
