やめさせろとめさせろ | 人間でいたい

人間でいたい

愛と平和


自分の泣き声が醜い。泣くことで浄化されるアレコレがあると聞くが、こういった理由で完全な「悦」に入ることはできない。
言わずもがな、事あるごとに頻繁に泣いては下品な景色を眺めるみたいな気分で早く、早く過ぎ去っていけばいいのにとじっと耐えしのぶ他ないのである。今日は、人目も憚らず暫くぶりに声をあげてびゃっーと泣いた。叫んだ。壁の薄いアパートの部屋だ、外の人が聞こえていても不思議じゃない。でももう、自制が効かなかった。会社を休んだのに、どうしてもやらなくてはいけないことがあって泣きながらメールを打ち、そんな自分と生きていくことに嫌気がさして泣き、ゴミ箱のゴミ袋がビリビリに破けてインスタントコーヒーのドリップバックの中身がパラパラと床に散らばったのを見て、何かがプチンと弾け飛んだように泣き狂った。部屋は暗くて蒸し暑くて、高校生の時の、優秀クラスにいてスポーツでも好成績を残していた同級生が交通事故で亡くなったことを思い出したりなんかして、何もかもがみすぼらしくなんとも下品な世界の景色、その中に生きている自分が全てがなにもかもが許せない、大嫌い。生きている人間をいとも容易くコケにするくせに、死んだ人間でははたと尊ぶり崇める下品な人間ども。掃いたら出てきたデッカい埃のような景色のように過ぎていく、当たり前。距離感はおわかり?上下関係。自己満足。ひとたび開きなおるとデカい埃の景色と化す。あーあ。と、哀れんで。大嫌い。掃いておわり。大嫌い。ダメなところばかりをあげつらって弱者の籠に閉じ込めようとする人も、上っ面では従順で聞き分け良いふうで内心は馬鹿にして何の責任も取りませんみたいな人も、お前の成功はたまたまだとか泥臭さで何とかなってるみたいな言い方してくる人も、もう全部が嫌だ、嫌だ。私は自分のしていることが何なのだ?と問われると人へ説明するのが難しい。私でもこれは何だ?と思うことばかりだ。泥臭いと思う。自分の泣き声と同じで、それに対して尊いだとか悦に浸ることは出来ない。それでも、やらなくてはいけないとは思う。それしか出来ないと思う。実用を考える。と、躍起になってジタバタする。やめろ、やめろ、もう入ってこないで、やめて、やめて、やめて。最近、夢に懐かしい人が出てくる。今日は5年付き合った元カレが夢で「ちゃんとお別れを言いにきたんだよ」と言っていた。喧嘩別れした。私は黙っていた。どうして?これから何をしていくんだろうか。綺麗と呼ばれているものを信じきることが出来なかった。何かが誰かが犠牲になり、偽善で成り立っている関係。それが綺麗か?馬鹿げている。綺麗なものなんていらない。必要なものがほしい。でも本当は必要なものなんてない。早く、早く通り過ぎていってほしい。夢に夢みてる。私は夢が、好きだ。夢に執着して生きている。人々の夢も好きだ。夢をみている人の顔、眼差しは美しい。時間がないように感じる。だから目に見えないものばかりが大切で温かくて尊くて、時に、恐ろしい。どうやって傷つかずに生きてゆくというのだろう。いや、こんなことを考えるのは馬鹿げている。そんな方法はいくらでもあるだろうから。でも本当に恐ろしいのは、怖いのは、そのどれもこれもを自分自身が拒絶するのではないか?と感じているからではないだろうか?頭の棘をひとつひとつしらみ潰したところで、巨大な埃になって掃いて終わりの景色になってしまうのではないだろうか。愛してほしい、愛されたいと思うこと自体が怖い。求めることもすがることも頼ることも全てが怖い。君が見ているのは人間?もしくは神?その眼差しを私は愛することができるのか。泣きじゃくっている時、今までであれば何気なくスルーしてきた人々の言葉が深く突き刺さることがある。その時にはじめて、ああ、良かったと思える。分かるとはそういうことだろう。分からないといけないと思う。苦しさは無意味じゃない。苦行が美徳みたいな意識はないが、痛みに名前がついた途端に痛みが和らぐというのは実際ある。そうだ。信じきるものとはそうあるべきだ。だから目を向ける。あぁだからもう、いいの。うだうだ言ったらいいの。だってこれが命だから。こういう命を恥じないで。めぐりめぐる景色を悲しまないで。恐れないで。そうしたらまた、明け方の赤紫の雲を浮かべることができるはず。